第69話

 腹を抱えて胎児のように丸くなる。

 息をゆっくり吐いて痛みを逃す。

 咽ると口から血が零れて落ちた。

 ……英里には見えないよう顔を隠しているからことを祈る。

 血の匂いが立ち込めだす。


 英里から気がつかれないようにしつつエドへと視線を向けた。


「これでよろしいですか、エリザベート様」


 エドは私の眼差しを綺麗に無視し、典雅極まりない動作で振り返り……私には違和感しか感じない満面の笑顔を英里へと向けている。

 全てが大仰で道化染みた芝居がかったソレ。


 けれどだからだろう、英里にはこの上なく満足するモノだったらしい。


「そうね、許してあげる! う~ん、どうしようっかなー。ま、お楽しみは後の方がきっと面白いし、スカッとする舞台を整えないとね~!!」


 英里はそれはそれは浮かれたに浮かれた笑みをしながら、踊るような足取りで鍵を開けて物置小屋を出て行く。

 その後を慌てる様にアルント少年がついて行った。

 物置小屋を出る際に、一瞬だけ心配そうな視線を私へと向けて。


 それを見送り、二人の足音が聞こえなくなってからもまだしばらくの間をおいて、エドは私を嘲る声を出す。


「本気では蹴ってないよ。大丈夫でしょ、起きなよ」


 ……エドから向けられた事のない嘲笑に私は自分でもびっくりするほど狼狽えている。

 動揺が収まらない。

 真っ当な思考が出来ずに呆然としながら、それでも痛みに耐えつつ起き上がった。

 口の端に残る血を拭おうとしたのだが……手をエドに掴まれて停止する。


「……エド……?」


 困惑する私を見事に無視し、エドは私の口から零れている血を舌で舐めとった。

 特に嫌悪感も無いし嫌という訳でも無いのだが……こういう事をエドにされた事が無いのでどうして良いかが分からない。

 目を白黒させる私を置き去りに、エドは私の顔についた血をすべて綺麗に舐め終わると、嘲笑含みの皮肉気な笑みを浮かべる。


「で、エルザ。演技はしなくても良いのかい?」


 瞬間凍結して固まった私を、エドは手を掴んだまま血を舐めたのと同じくらいに近い距離から覗き込む。


「言っておくけどさ、一応ね、俺はそれ程の影響化には無いんだよ」


 エドは吐き捨てる様に言う。

 彼の言うとはつまり……エリザベートにして英里の事だろう。


 確かに感じられるのはエリザベートへの強すぎる嫌悪感。

 それを隠すための道化の演技なのだろうと分かってしまう。

 間違いなくエドはエドのままだと感じられる。

 ただ一点違うのは――――私との距離感。


「……エド。あの、ありがとう」


 元のままのエドであるならば、きちんとお礼を言いたかった。

 勿論彼女の力で変わってしまっていたとしても、それでもお礼は言っただろう。

 皆に届かなかったとしても、それでも助けてもらったのなら言った。

 私の味方に利となる事をしてくれた場合も。

 たとえそれが思惑込みであったとしても関係は無い。

 しない善よりする偽善だ。

 それが私の自己満足でも必ず。


 エドが本気で蹴ってはいないのは知っている。

 魔法はおろか魔力さえ込めてはいなかったのも。

 少しでも魔力が込められた蹴りだったのなら…魔力無しの私はそれこそ即死なのだから。


 ……あれ?


 何かが脳内に閃いたのだが……霧散する。

 重要なのかどうかも分からないけれど、それでも何か違和感が消えなかったのに。

 一体何だというの……?


 思考の迷路に入り込んだ私の頬を抓られた。

 すぐに離されたけれど……犯人は一人だけ。


「エド……!」


 馬鹿にした笑みで私を見詰め続けるエドへと抗議を込めて名前を呼ぶ。

 ついでに見つめ返した。


「本当に、エルザは馬鹿だよね」


 嘲笑を隠しもしないエド。

 相変わらず腕は掴まれたまま…息がかかるほどエドの顔が近いままだった。


 エドに向けられた憶えのない表情。

 でも、それでもだ。

 これは本来のエドだと強く信じられるから。

 ……理由は単純極まりないのだけれど。


「うん…馬鹿でごめんね。迷惑ばかりかけてごめん。それと……ありがとう」


 苛立たしいと全面で表現しているエドを見て、やはり私は嬉しくなった。

 例え見た事のないエドだとしても、それでも……私に怒るポイントが変わらないのだ。

 だから、やはりエドはエドのままだと断言する。


 私がこのままだと酷い事になるという点。

 それは大抵私が利用され尽くしてしまうからというモノ。

 呆れている場合は……そのままでも良いけど、自分がフォローしないといけないとエドが自分に誓うモノ。


 これ等が分かるように何故なったのかと言えば単に戻っただけだ。

 自分で蓋をしていた諸々が。


 改めて確認。

 エドは変ってはいない。

 それでも多少の影響はあると言っていた。

 だからエドの言動が私には見慣れないモノになっている。

 けれど根っこの根っこが変わってはいないのだから、嬉しくて嬉しくてどうにかなりそうだ。


 知らずに浮かべていたのは――――意識が戻ってから初めてかもしれない心の底からの笑みだった。

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