第89話
リーナに送ってもらって、寮の自室に到着して兎に角肩から力が抜けホッと息を吐く。
辺りを見渡し、自室の中は大丈夫だと確認した瞬間、ソファーに崩れ落ちた。
「エルザ様!? 大丈夫ですか!? 先生をお呼び致しましょうか!?」
侍女達の心配そうな顔に何とか苦笑を張り付け、声を絞り出す。
「大丈夫よ。診察してもらった限りでは問題は無かったから。単純に疲れただけよ。ベアトリス様とアーデルハイト様と途中で偶然一緒になってね、話が弾んでしまったから予定よりだいぶ長くかかってしまって、それで疲れたのだと思うわ。ずっと寝ていたからでしょうね。体力をつけないと。今度の週末にはルディ様とも出かける予定なのだから、しっかりしないとね……あの、お風呂に入りたいのだけれど、良いかしら?」
侍女を代表してブランシェが私を案じる様にしながら
「風呂の準備は直ぐに致します。お身体もお洗い致しますし、介助も致しますからご安心下さい」
そう言われてしまうと、ちょっと困ってしまったり。
全面的な介助は非常に居た堪れないのです。
迷惑をかけている事が心苦しいやら恥ずかしいやらで大変だものね……主に私の心が。
とはいえ私の我儘なのだし、ブランシェ達にとっては当然の事なのだからと言い聞かせ、回らない頭と疲れ切った身体に鞭を入れて返答する。
「ありがとう。助かるわ、お願いするわね」
その言葉をどうにか口に出し、恐怖と闘いながらどうにかこうにか瞼を下ろした。
お風呂から上がったら髪を乾かしてもらいつつ船を漕ぎ、目を開けた時にはベッドの上で、前後の記憶の齟齬を繋げようとしばし考え込む。
「お目覚めですか? 夕食というには少々遅うございますが、何か口にされませんと身体が持ちません。何かご要望はございますか?」
直ぐに気が付いた小柄でいつもは寡黙な侍女のビレに言われ、そういえばお腹が空いたと苦笑する。
「ありがとう。お任せするわ。特に何か問題も無い様だから大丈夫だと思う。それとベッドまで運んでくれてありがとう。良く眠れたわ」
侍女のビレはホッとした様に紺の瞳を綻ばせ微笑んでから一礼し、退出した。
身体を洗ってひと眠りしたからだろう、どうにか頭が回る、と思う。
そして思い出す。
リーナと学校の医務室から帰る途中、あの忌まわしい視線を感じたのだ。
ねっとりと絡みついてくる様で吐き気がしたし、自分が汚されでもしたかの様にも思えて、ひたすら気持ちが悪かった。
それだけならまだしも、その視線以外の、別の誰かが殺意、だろうを込めて見詰めてきているのも感じたのだ。
視線だけで串刺しになりそうな程の強い視線で、その視線の方を向くのが恐ろしく、誰かは分からない。
あの気持ちの悪い視線も誰かは判然としないのはいつもの事として、殺意あふれる視線まであって、本当に疲弊したのだ。
あの舐め回されている様な視線が非常に悪寒を誘い、兎に角お風呂に入って身体を綺麗にしたかった。
視線だけなのだから実際に洗うのはおかしいのかもしれない。
それでも、実際に触られている様な錯覚を覚えてしまう程に強烈な上鮮烈で、身体を洗わずにはいられなかった。
食事を終え、気分転換に何か作ろうかと思っていると、通信機が鳴る。
相手を見て直ぐに出た。
「ギル? どうかした?」
ギルはあまり表情が動くタイプではないが、それでもとても嬉しそうだろう顔をしているのが分かって首を傾げる。
「エルザ、久しぶりだ。女子寮には入れないからな、心配していた。休日にはフリード殿下と外出されたとは伺っていたし、ユーディやリーナに聞いていたよりは顔色も良いが……リーナと出歩いたとも聞いたがそれで疲れているのか? 少し疲労が見えるな。大丈夫か? 痛みはないか? 苦しかったりは?」
彼にしては珍しく矢継ぎ早に問われ、ちょっと瞳を瞬かせる。
「えっと、あの、大丈夫よ。疲れたから少し寝たし。医務室にも寄って診てもらったけれど特に問題は無かったから。痛くもないし、苦しくもないからね。ありがとう、心配してくれて。私は平気よ」
ギルの姿を久しぶりに見て嬉しい私は、自然と笑みが漏れていた。
長く会えなかったのだ。
ようやく会える様になって喜んでいたのに、また私は十日も寝込んでいた上に食事は未だに別々、教室も別棟なのである。
会えたら笑顔になるのも当然というものだ。
「そうか……そうだな。出掛けたのだし疲れていて当然だな……すまん」
何故かギルが申し訳なさそうにして慌ててしまう。
「ギル、あの、本当に大丈夫よ。それでどうしたの?」
ギルは苦笑しながらどこか照れくさそうにしつつ
「ああ、うん、すまん。どうも、その、だな、一年会えなかっただろう? 久しぶりに会えたというのに、直ぐにエルザが体調を崩してまた会話もなくなってしまったし姿も見れないしでだな、だから、その、どう話したものかと……ああ、私らしくないな。兎に角、要件だ!」
何か自分に言い聞かせつつらしいギルは、意を決した様に私を見る。
「エルザ、桜を見に行かないか?」
突然のギルの言葉に、私は目を見開くしか出来なかった。
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