第411話 彼女を作るとかいう以前の問題

「あー疲れたー。アルヴァマーってトランペット吹きっぱなしだからキツイのよね」

「僕らにとって、それはご褒美です」

「ん?」


 合奏が終わって伸びをした同い年に心のままを言ったら、なぜか首を傾げられた。

 しまった、言い方を間違えたか。そう考えて、湊鍵太郎みなとけんたろうは困惑の眼差しを向けてくる千渡光莉せんどひかりに言う。


「あ、いや間違えた。チューバにとって、吹きっぱなしは普通です」

「まあ、そうかもしれないけど……なんか今、それだけじゃ済まないよどみのようなものを見たような……」

「気のせい気のせい。今日も練習楽しかったなあ、うん」


 納得いっていないといった風の光莉に、被せるように鍵太郎は言った。

 ここは違う楽器を担当する者として、きっと相容れない領域だ。永遠に分かりえないであろうから、スルーしよう。

 それよりも今は、お互いに共有できるところに話を持って行った方がいい。

 そう判断して鍵太郎が違う方面に話題を向けると、真面目な副部長は無視できなかったらしく、練習という単語に食いついてきた。


「そうね。コンクールは終わっちゃったけど、なんだかんだやっぱり楽器を吹くのは楽しいわ。学校祭に向けてもがんばらないと」

「先輩たちも来るしなあ。立派な舞台にしたいもんだ」


 光莉の迷いのない言葉に、鍵太郎も部長としてうなずく。

 三年生、最後のステージとなる学校祭。

 これは受験生たる自分たちにとっても、ないがしろにできない大切なものだ。これをもって正式に引退となる本番。OBOGとの共演。何より好きな曲を思い切りできる機会。どこを取っても外せない舞台なのである。

 こんな楽しいことを逃すまいと、三年生の秋になっても同い年たちはしょっちゅう音楽室に顔を出している。

 もちろん、勉強だってしなくてはならないけど、それとこれとは別腹だ。キツイけれど、吹き終わったときはやっぱり楽しかったと思えるから部活にはやってきている。

 中でも、部長である鍵太郎、副部長である光莉は当たり前のように音楽室にいた。それは、後輩たちへの引継ぎもあるからで――と。

 鍵太郎が思っていると、次期部長であるバリトンサックスの後輩が話しかけてくる。


「先輩せんぱい。学校祭のお客さんに渡す用のパンフレット、パートごとに自己紹介文入れればいいんですよね?」

「そう。部員紹介みたいな感じで。形式は自由で構わない」


 今回の学校祭では、気合を入れてパンフレットを作ろうと、楽器別に部員紹介コーナーを作ろうということになっていた。

 例年は簡単なプログラムと曲紹介、部員名簿だけであったのを大幅増量する形だ。強豪校の演奏会パンフレットのように、フルートならフルートパートだけのフリースペースを作る。

 楽器ごとに個性が出るので、全部出そろったときにどうなるか楽しみな企画だった。真面目系のパート、笑いに走るパート、イラストを載せるパートなど個性豊かなページになる。

 そして各パートの原稿の取りまとめは、次の部長に任せようということになっていた。

 面倒くさいし不安でもあるが、今のうちにやっておかないと先輩はいなくなり訊く人もいなくなるため、もっとややこしいことになる――と、次期部長も不承不承その任を引き受けてくれている。

 そんな後輩は、鍵太郎の回答に相変わらず歯に衣着せぬ物言いで応えてきた。


「自由っていうのが一番困るやつなんですけどねー。せめてお手本があればいいんですけど、初の試みだからそれもないし。まったく、ややこしい野郎ですね、先輩は」

「そのややこしい野郎に世話になってるのは誰だ、この失言大王め」

「ほっぺをつねるのはパワハラでふー。まはくはーと各パートに投げてみることにひまふ」


 口を伸ばされながらも平気な顔で、次期部長は今後の方針を述べてくる。

 このくらい図太い方が、代表者というのは適しているのかもしれない。自分はそうでもなかったから――と、鍵太郎は去っていく後輩の背中を目で追った。

 部長になれと言われてから正式に就任するまで、自分は相当不安に怯えながら過ごしていたけれど。

 あの次期部長の様子なら、心構えの点に関してはそこまで心配いらないのだろう。

 代わりに、実務能力においては若干の疑問があるのだけれど。合宿のしおりで訳の分からないスローガンを掲げてきた件がちらりと脳裏をよぎり、冷や汗を流す。


「……ある程度めどがついたら、いったんこっちでチェックするって言えばよかったかな。どうも怖いよ、後輩たちだけに任せておくって」

「あのさあ、あんたってあの子に関しては、本当いつまで経ってもそうよね。過保護なのよ過保護。いずれ自転車の補助輪を外すみたいに、手を離さなきゃいけないときがあるって言ったでしょ、前にも」

「まあ、そうなんだよな」


 やり取りを見ていた光莉が言ってくるのに、苦笑で返す。

 あの後輩が入ってきた当初も、この同い年には似たようなことを言われていた。世話を焼き過ぎだとか、甘いとか。

 一年半が経過しても、結局その関係は変わらない。目の前の課題が大丈夫になったら、今度は違うもののフォローに追われてと、ステージが変わるごとに奔走させられている。

 まあ、自分が望んでやっているのだから別にいいのだけれども――

 それでも、もうそれも叶わなくなってきたことを、認めないわけにはいかなかった。


「本気でもう、手を離さなくちゃいけないからな……あと一か月で引退なんだし」


 間近に迫ってきたタイムリミットを読み上げて、改めて実感する。

 危なっかしくても手を出したくなっても、もうそれすら許されないのだ。

 だからその予行練習として、我慢をすることを身につけなければならない。


宮本みやもとさんたちが部長になるためにがんばるっていうんだったら、俺たちはそれを育てることに専念しないとな。手放していく勇気っていうか、あえて見守る覚悟っていうか。そういうスタンスにして、自分の役職を手放していかないと」


 そうしなければ、後で残された後輩たちが苦労するのだ。

 いなくなった後に、途方に暮れてしまうのだ――これまで過ごしてきたこの部活での日々を思い出し、ため息をつく。

 先輩たちがいなくなったとき、いつもどうすればいいか最初は分からなかったが、そのたびに何か必ず残されているものがあるのに気づいた。

 それを頼りに、再起していったものだ。そう考えると、先輩たちもこんな気持ちだったのかなと思う。


「俺がいなくなっても回っていく仕組みを作るんだ。それが部長としての最後の仕事なんだろうな――そう考えれば、他人に任せるっていうこともできる気がする」

「……いなくなった後に周りが困らないようにとか、あんた言ってること終活しゅうかつみたいよ」

「はは、違えねえや」


 ジト目で言ってきた光莉に、苦笑いで応じる。

 確かに、自分がこれからやろうとしていることは終活――死を前にして身辺整理をしているのに近い。

 自分がいなくなっても回っていくシステムを作る。

 ジジ臭いことを言っている自分に、立場を自覚する。この部を預かる部長。その役職は、一年前に心に刻まれてから片時も忘れたことはなかった。

 全員を守り続けると決意してから、走り続けてきた今まで――すると。


「ねえ」


 そんなこちらを見て、光莉が言ってくる。


「あんたは、それで大丈夫なの? 自分がいなくなっても回る仕組みを作って、背負ってきた荷物を全部降ろして――それで、あんたは解放されるの? 部長っていう役職から」


 その眼差しはいつもの険のあるものではなく、本気でこちらを気遣っているものだった。

 副部長としてこちらを最も間近で見てきた彼女は知っているのだろう。

 自分がいかに、部長としての重圧に耐えてきたか。

 言いたいことを言えず、振る舞いたいように振る舞えず、立場をわきまえて過ごしてきたか――合宿の夜。そして東関東大会の閉会式の後。

 久しぶりにただの奏者として叫んだ自分を、この同い年だけが知っている。


「おじいちゃんみたいなことを言って、そんな風に笑って。どう考えたって、あんた相当疲れてるでしょ。学校祭が終わったところで、それが癒えるようには私には見えないんだけど」

「んー……。そうだなあ。その辺り、自分でもちょっと分からないんだけれど」


 こびりついてしまった部長としての自分を落としていったとき、後に残るのはなんなのだろうか。

 入部した頃の、何も知らなかった自分に戻れるだろうか。いや、たぶん無理だ。

 だったら部長になる前の、気楽な身分に戻れるのだろうか。それもなんだか、違う気がする。

 先日あのアホの子とも話したが、どうなるかは自分でも正直分からない。

 けれども――


「でも、どっちにしろキツくても音楽は続けるかなあ。部長とか関係なく、さ」


 楽器は吹き続ける。

 それだけは、決めている。

 引退して、少しだけ休んで、吹きたくなったらまた吹くであろう自分のことは見える。

 どんな姿になろうとも、だ――同い年にはおじいちゃんみたい、と言われた苦笑を再び浮かべ、鍵太郎は光莉にそう言った。


「どうなるかは分からないけどさ。大丈夫かどうかも、そのときになってみないと判断つかないけど――曲中ほとんど吹きっぱなしとか、さっきも言ったけどチューバにとっては普通だから。なんとかなるんじゃないかなあ」

「……回答になってないわよ。私はそのときのあんたが無事かどうか、それを訊いてるんだけど」

「そんなこと言っても、そのときになってみないと自分でも分からないからさー」


 けれど、この同い年が本気でこちらのことを心配してくれているのは分かった。

 そこだけはんで、ありがとうとすまないを同時に伝える。ついさっき後輩にも言われたが、我ながら本当にややこしい男だと思う。

 ずっと走ってきて、支部大会まで這うようにして進んで。

 ゴールしたとき自分がどんな風になっているのかも知らないけれど。

 もう少し、最後までやり切らせてほしい――そう口にすると同じ三年生としては納得せざるを得なかったのか、光莉は「……分かったわよ」とうなずいた。


「けど、あんまり無理しちゃだめよ。あんたのためにも、後輩のためにも」

「そうだなあ、珍しくちゃんと心配してくれたおまえのためにも、せめて人間の形は残るくらいにしとかないとなあ、がんばり加減も」

「し、心配とか⁉ 別にそういうんじゃないし⁉ 周りに迷惑がかかるから忠告してるだけだし⁉」


 ていうか、原型を留めないレベルでがんばり続けるチューバ奏者って、やっぱりおかしいわよ――⁉ と同い年は叫んでくるが、そこは突っ込んだら藪蛇だと思ってあえて口に出さないことにする。


「とにかく! 学校祭までには後輩たちに、あんたが背負ってるもの、全部明け渡しておくこと! これは副部長命令よ、いいわね⁉」

「はーい。心の健康のためにも部活の運営のためにも、健全にやっていくことを俺は誓いまーす」

「宣誓にやる気が見えない!」


 いつものとおりぎゃあぎゃあ言ってくる光莉に、若干の安心感を覚える。

 彼女くらい元気があれば、どんな状況に置かれてもがんばれるのかもしれない。

 けれど、今まさに首元を掴んでがっくんがっくん揺さぶるのは、ゴールする前に死んじゃいそうだからやめてほしいなあ――と、おじいちゃんのごとくふわふわと笑いながら、鍵太郎は考えたりもするのだった。



###



 そして。


「何よ……なんかもう、引退したら彼女を作ってもいいとか、それ以前の問題じゃない……!」


 鍵太郎が楽器を片づけにいくのを見送りながら、光莉は唇を噛んでいた。

 部長としていっぱいいっぱいだから、他のことは考えられない――そう言っていた彼に、じゃあ引退したら彼女を作ってもいいのか、と次の副部長になる後輩は言ったものだったが。

 それまでの道のりが過酷すぎて、もはや生きるのに精一杯、いった風に彼はなっているように見える。

 持ってきたものを後輩たちに託せと言ったものの、そうしたら重りがなくなって昇天してしまいそうな雰囲気すらあった。

 深く、深く淀んで、疲労している。

 さらに我慢ならないことに――そうさせたのは、自分たちなのだ。


「私たちがいる限り、あいつはずっと部長として振る舞わないといけないってことでしょう、あれじゃ……!」


 この一年、ずっと傍で見てきたからこそ分かる。副部長として過ごしてきたから知っている。

 もう彼は部長としての自分を、一部にしてしまっている。

 ずっとずっと周りを守ることを課してきたから、それが抜けなくなっている。


「じゃあ私たちじゃ駄目ってことじゃない、あいつが本当に自由になれる場所は――」


 そう悔しげに口にする光莉の目に、ある文字が入ってきた。

 彼が学校祭のパンフレットの中で、唯一担当するページ。

 OBOG名簿の中にある、ひとりの名――


「……あなたしか、いないんですか」


春日美里かすがみさと』と書かれている部分をなぞって、彼女は泣きそうな顔でそうつぶやいた。

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