第393話 この世すべての悪
「あー、知ってるヤツ少ねえと、スゲー気が楽だわ」
東関東大会、その本番の会場で。
川連第二高校、そこの吹奏楽部の顧問である
五階席のオペラホール。
それは確かに立派だけれども、生徒たちほど気圧されてはいない。
むしろそういったハコより、中身の方が本町にとっては重要だった。設備ではなく、そこで行き交う人々――教師という肩書きを持っていると、それを無視などできないのだ。
具体的に言うと、知り合いに会うたび挨拶しないといけない。
県大会では顔を動かすと視界に必ず一人はそういった人間がいたため、面倒くさいと思いつつも頭を下げなければならなかった。
それが少なくなっているだけでも、本町にとってはかなりの負担減なのである。しかし、隣にいた同じ大学の後輩はそうではないらしい。
彼は――
「僕にとってはそうでもないんですが……ほら、あの人。こないだ専門誌に載ってたプロの方です。学生さんの指導で来てらっしゃるんですね」
「知り合いはいなくても、有名人はいっぱいいるってか。顔つなぎで挨拶にでも行ってくるか?」
「ええ、まあ……後で」
「今行けよオラ。そーいうことだからおまえ、いつまで経ってもうだつが上がらねえんだよ」
半ば本気で、音楽の道で生計を立てているプロに蹴りを入れる。腕は確かなのだが、人付き合いにはちょっと難のあるこの後輩を指導するのも、先輩としての役割だった。
特にこういった、その筋の人間が集まる場であるならば。
普段は雇用主と雇われ指揮者といった体で話している城山にも、ちょっと違った態度で接することができる。まあ、どちらかというとこちらが素なのだけれども。
そんなわけでマジで
少し話をして、城山は戻ってきた。ひと息ついて、名刺をしまい――彼は、軽く微笑む。
「いい方でした。今度トロンボーンが必要な本番があるから、参加しないかって言ってくれて……お受けすることにしました」
「そっか。な? 声かけてよかったろ?」
「ですね」
さっそく仕事をひとつゲットしてきた後輩に、本町が笑って言い、城山もうなずく。
ちょっとした顔のつながりで、こういった機会が生まれたりする。
彼のようなフリーの音楽家にとっては、そういったものは重要だろう。誰かからもらった仕事が、今後の人生に影響してくることもあるのだから――と、本町は後輩の顔に、かつての彼の過去を思い出していた。
あの、女子高への指導の依頼も。
元々は、
会場のどこかで、自分の学校の生徒がしているように、辺りを見回す。
そこには演奏者たる生徒たちだけでなく、たくさんの大人がいた。
先ほどのように、学校の指導に来ているフリーのプレイヤー。東関東ブロックを構成する四県の、連盟の理事長たち。
あそこで
そしてかつての自分たちのように、その教え子であろう音大生も――
「先輩」
同じものを見ていたのだろうか。違うものを見ていたのだろうか。
そんなことをしていたら、城山がこちらに声をかけてきた。
「たぶんもうここには、僕を正確に知ってる人はいないと思うんですよ。だから、大丈夫です」
「……おまえをかばいたくて一緒にいるわけじゃ、ないんだがね」
「ですよね。でも万が一、億が一、『あの人』が来ることを警戒してた。そうじゃありませんか?」
「……まあ、考えてなかったといえば、嘘になるが」
穏やかに言ってくる後輩に、そう応える。『あいつ』――城山にあの女子高の指導の仕事を紹介し、そして同じ大学で、自分と同期だったやつ。
どこまでも、決定的に相容れられなかったやつ――顔を思い出したくもないのに昔の記憶がチラリとかすめて、本町が眉をひそめると。
城山匠は言う。
「大丈夫です。あの人、今は東京大会を中心に出入りしてるみたいですから。もう縁が切れた僕のところにわざわざ来るほど、暇でもないでしょう」
「……まあな。ていうかあいつまだ、この業界で仕事できてんのか。世の中不思議だねえ」
「知らなければ、ちゃんとした人ですから」
だから、当時の僕もあの人について回っていたんですから――と、さらりと言う後輩は既に過去を乗り越えているのだろう。そう感じさせるだけの落ち着きがあった。
これならば確かに、直接相対しても大丈夫、とも思う。
たとえばこの支部大会を抜けて、もし東日本大会、やつと面と向かって話したとしても。
負けないくらいの、強さがある。そう確信して、本町は息をついた。あいつは人の輝きを全て飲み込むブラックホールのような存在だが、今の彼なら食われはしない。
そして自分の生徒たちにも、そう在ってもらいたい――嫌悪すべき相手の顔を押しのけ、愛しき
城山が続ける。
「昔の僕のことなんて、もうみなさん覚えてませんよ。だいぶ前のことですし――世代も違うし、ブロックも違う。何よりも、今が大事だ。そう思う人たちでここはいっぱいです」
「過去より今、か。そうだな。じゃなきゃ支部大会なんて来られはしないか」
まあ、このひたすら顔だけはいいこの後輩が、忘れられることはないと思うのだが――と、ちょっぴり考えたりもするのだが、それは言わないことにして。
「……けど、もしこの先『あいつ』に会うようなことがあったら、アタシは容赦しないぜ」
最低の可能性だけは回避しようと、それだけは口にしておく。
もしも、の話だが東日本大会で『あいつ』が来るようならば、絶対に情けなどかけない。
持てる手段を全部尽くして、自分の学校を守る。
この世の中には影が存在する。
それは大人になって、よく分かっていた。特に、この業界では――人の生命を食べて生きる悪魔に時折、
世界全ての悪徳を塗り重ねて、それを周囲に振りまいて。
それでも堂々と、のうのうと生きているやつが――
あまりに強大すぎるから、自分たちとは別のルートで最終局面にたどり着けてしまう。
そう思わせるだけのデタラメさが、やつにはあった。自分たちとは価値基準が、まるで違う生き物。
化け物。
駆逐できない人の悪性――二度と会いたくない同い年のことをそれ以上考えるのを止めようと、本町は首を振った。こうやって変に警戒心を煽るのも、やつの
闇に巣くって、心を内側から食い破る。
そうして壊れていった人間を、何人見たことか――けれどもそこから生還した、数少ない存在である城山は、にっこりと笑う。
「平気です。僕は今、川連第二高校の指揮者だ。あの頃の僕じゃない。その場の人とのつながりで世界を変える、現在進行形の人間です。大会の会場で見た顔が多くて、どう挨拶しようか迷ってる――そんなちっぽけな人間です」
「……匠」
「今のつながりは、人を変えます」
それこそ、さっき先輩の一押しで、仕事が取れたみたいにね――と、蹴られた脚をさすりつつ、後輩はいたずらっぽく口の片端を吊り上げた。
「自分の未来は、自分で選べる。そこに至るための手段も、選ぶことができる――僕はそれを、あの子たちから教わりました。だからそれを、これから僕も実行します。束ねて、まとめて――生き様を示す。そうしていこうかなと思います」
「……分かった」
指揮者として、個人としての城山匠の言葉に、本町はうなずいた。ここまで来たら、彼を信じて託すだけだ。
この後輩は、人付き合いに少し難はあるが、腕は確かだ。
だからこそ――
「前言撤回だ。知ってるヤツがいたとしても、もう気にしねえ」
世間は狭い。
世界は広い。
そんなこの業界で、今の自分たちの生き様を示そうと思う。
「大人の面子なんて、舞台の上じゃゴミみたいなもんだ。だったら思いっ切り――うちのガキめらと一緒に、やっちまおうぜ」
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