第374話 涙の海の先へ
「なあ
「えっ」
東関東大会も目前に迫ってきた、そんな部活の後に。
先日のホール練習で、自分たちと同い年のホルン吹きは涙を流していたのだ。
それが、どうしてなのか――本人に訊いても教えてくれなくて、こうして光莉に尋ねてみたのである。
最近とみに、この二人は仲良くなってきた。
だからこそ、何か聞いていないかと思ったのだが――同い年はびくりと肩を震わせた後、「し、知らないわよ!」と言ってそっぽを向く。
「だ、大体、なんで私に訊くのよ⁉ 泣かせたのあんたでしょ⁉ よーくその胸に手を当てて考えてみたら⁉」
「まあ、そうなんだけど……いい演奏ができた、って言ったのに、なんであいつが泣くのか、それが理解できなくて」
これまでのあのホルンの同い年だったら、そんな風に言ったらまず喜ぶはずだったのに。
それなのに、なぜ逆の反応が出てくるのかが、どうしても分からなかった。
金賞を取るというのがどういうことか、完全には理解していなかった――そんなようなことを、本人は言っていたけれど。
鍵太郎の知り得る限り、あれほどまでに音楽に対して真剣な部員はいないのだ。いや、いないと言ったら語弊があるか――目の前にいる光莉だって、ひたむきにコンクールでの金賞を目指している部員のひとりなのだから。
しかしだからこそ、余計に彼女に訊いてみたというのはある。
音楽と、感情――それを、分けようと支部大会に挑むにあたって、決めたのだけれども。
それにしたって、見過ごせないところなのだ。
仲間のひとりが、つらい思いをしているというのは――そう言うと、光莉はため息をつく。
「……その『いい演奏』をするのに、譲れないものを譲った、ってことなんじゃないの。よ、よくは知らないけど……」
「片柳ほどのやつが、そこまでこだわってたものか……なんだろうな。よっぽどのものだったと思うけど……」
「それを当の本人が言うと、なんかイラっとくるわね……」
「悪かったな! どうせ俺は同い年を泣かせた男ですよ!」
半眼で言われたので、思わず強い口調でそう言い返してしまった。それほど、女の子の涙というのは動揺するのだ。
まして、あの普段クールなホルン吹きとなれば、その破壊力は絶大である。
たとえ演奏がうまくいっても、そんなものを放り出して駆け寄りたくなるくらいに。
かつて何を引き換えにしてもいい演奏がしたい――なんて考えたこととは、矛盾しているかもしれないけれど。
「……なあ、千渡。俺の望みは、東日本大会にみんなで笑って行くことなんだよ」
そう思うと同時に、誰かと一緒にいたいと考えたことも事実なのである。
だって、そうしないと楽しくない。
これまで見たこともなかったような、すごい景色を見ても――それを共有できなければ、ただ虚しいのみだ。
まして、それが誰かの犠牲の上に成り立っているとするならば。
「何も失わずにいきたい、っていうのは子どものワガママかもしれないけどさ。でも、俺にとってはみんなの思いっていうのは、それだけ大事なものなんだよ」
『彼女たちを守りたい』――そう思って部長になることを決めた、この身からすれば。
誰かが心をすり減らしているということは、我慢できないことだった。
傲慢さと同時に、優しさも持っていないと楽器は吹けない。相反する感情が同居している。
これが、中途半端というものかもしれないが――けれども。
どちらかを手放したら、結局全部がダメになってしまいそうな、そんな気がする。
「すげーな、こんなところまで来ちゃったな、って……東日本大会って、北海道だっけ。そこでみんなで笑い合いたいんだよ。なのに、そこに着くまでに引き換えにしたものが多すぎたら、意味がないだろ。なんのためにやってきたんだってことになるだろ。それじゃあ……元々目指さなければよかったってことになるじゃん」
海を越えて、最果ての地へ。
理想郷へ――そこに向かうことが間違いだと言われたら、これまでやってきたこと全てが無駄になってしまう。
それだけは、避けたかった。同い年を前に一息にそう言うと、光莉はそんなこちらを見てやはり、ため息をつく。
「……本当。前にあの子自身が言ってた通りじゃない。身内に弱すぎなのよあんた。ちょっと泣いたくらいでぎゃーぎゃーぎゃーぎゃーと……」
「だって、片柳が泣くってよっぽどだぞ? それだけの負担を強いてるっていうのは、やっぱり――」
「……まあ、そんなあんただから、私たちはついていく気になったんだけど」
「よくないことなんじゃないかって……え?」
ボソリ、と付け加えられた一言に、うつむきかけていた顔が上がった。
見れば、同い年は戸惑い気味に――何をどう言ったらいいものか、といった様子で、頬をかいている。
やがて彼女は気まずそうに、照れ臭そうに口を開いた。
「……ねえ、あのさ。あの子がつらい思いをして泣いちゃった、っていうのは――ええと、これは予想よ? あくまで、予想だけど――譲れないものよりも、もっと大切なものを優先したからじゃないかしらって、そう思うのよ」
「……譲れないものよりも、大切なもの?」
それは一体、どんなものなのだろうか。
自らの心を傷つけてまで、やりたいことというのはなんだったのだろうか。
それは、本人にしか分からないだろうが――あくまで予想だ、と言い張りつつ、光莉はゴホンと咳払いして述べてくる。
「それは、誰かを思いやる気持ち……なのよ。誰かのために何かをしてあげたいっていう――そういう、気持ち。今、ここであんたが立ち止まったら、あの子がそこまでしたことの意味がなくなっちゃう。
金賞を取りたいの。みんなで笑い合って――そうね。みんなでまた次のステージに行きたいのよ。だからそのために……ちょっと個人的に考えてたことを、抑えた、って感じなんじゃないの。……知らないけど」
「……それが、あいつの思う『大切なもの』なのか?」
「そうよ。あんたと一緒なのよ、目指してるものは。そこに計算外の要素が入ってきたから……混乱して、いらないことまで考えちゃったんじゃない? まったく、なんでも論理で考えるあの子らしいわよね」
そんなことしなくなって、普通にやってればよかったはずなのにね――楽器を吹くのと一緒で、と。
どこに対してだろう。同い年はもう一度息をついた。
それは、彼女の友達へか、頼りない部長へのものか。
それとも自分自身に向けてのものだったのか――分からないが、光莉はようやくちゃんとこちらを見て言う。
「だからね、そこまでしたあの子のことを、尊重してあげてほしいの。傷ついた、ってことに目が行きがちだけど、どうしてあの子がそこまでしたか、それを考えてあげて。ここでこれまでのことを全部放り投げたら、それこそ私たちがやってきたことは無駄になっちゃうから。
目指すものは一緒。そう――同じなの。だから、あんたには傷じゃなくて、その先に目を向けてほしい。それが、私たちの望みでもあるから」
今さら後には引けないわ。
ううん、引いちゃいけないのよ――と、同い年は厳しい眼差しで口にした。
「みんなのことを思うんだったら、ここで手を緩めちゃダメ。情に流されるだけじゃなくて、本当に目指すものを作り上げる――それが、今回の支部大会に向けて、私たちが取り組んできたことでしょうが。それをあんたが放り投げて、どうするのよ」
「……っ」
そんな副部長からの鋭い指摘に。
鍵太郎は部長として、唇を噛んだ。
誰かの思いに気を取られて、目的を見失うな――そう言われて横っ面を張り飛ばされたくらいの衝撃が、心に走る。
自分は甘いと、これまで散々なくらい指摘されてきたけれども。
こうまで突き刺さったのは初めてだった。ギリギリの状況だからこそ、人間は本性が出る――そう改めて思い知って、自らの弱さに反吐が出そうになる。
けれども、それでも進まなくてはならないのだ。
それは、みんな同じなのかもしれない。
だから、あの同い年も泣いたのかもしれない――ようやくそんな風に思うことができて、鍵太郎は光莉に言った。
「……すまん。そうだった。ここで俺が揺らいじゃ、いけないんだった。言ってくれてありがとう、千渡」
「……別に。いいのよ。コンクールっていうのはそういう場所だって……あの子も言ってたんでしょ。だったらいいわ。許してあげる」
女の子を泣かせた罪は、その程度じゃ済まないけど。
今回は特別。
その態度に免じて、このくらいで勘弁しといてあげるわ――と、自身もきつい言葉を使った反動だろうか。光莉も苦しげな顔でそう言って、攻撃的な構えを解いた。
そういえば、かつてこの同い年には『自分が不必要なくらい場を緩めようとしたら、遠慮なくその姿勢を叩き直してほしい』と言ったのだった。
去年の今頃。一緒に行った、オーケストラの演奏会で。
緊張と緩和。それぞれがいいバランスになったときに、いい響きが生まれるのだと――そこで出会ったバイオリニストに言われた。
そのときに、こちらからそう提案したのだ。それを、光莉は承諾して――図らずも、そのときの約束は果たされたことになる。
全力で張り詰めて、そして切れないように気を遣う。そんなことを今まさに、二人でやっていた。
だったら――
「……なあ、千渡。俺たちいい音出してるよな」
上手くなった、よくなった。
その証拠に、今まではしなかった『匂い』も感じるようになった。
なら、これが『理想の場所』にたどり着くための、たったひとつの方法なのではないか――そう、思ったりするのだけど。
本音をぶつけあって、噛み合わせて、それで『生きている演奏』ができるようになった。そう思ったりするのだけど――
「……前よりよくなってるに決まってるでしょ。あとはもう……ここまで来たのなら、悔いのないようにやり切るだけよ」
「そっか。……そうだな」
そうやった今、二人してケンカの後に、ダブルKO、ノックダウンしているような状態で。
こんなんで大丈夫かなと思ってそう訊いてみたわけだが、同い年からそんな返事があったので安心した。
傲慢さと優しさを合わせても、中途半端にはならない。
むしろ、両方とも持ち合わせているからいい音がするのだ――そう言われたような、そんな気がして。
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