第369話 間違いなんかじゃない

「その計画、やっぱり止めた方がいいと思うんだよ」


 同い年の千渡光莉せんどひかり片柳隣花かたやなぎりんかの前で、宝木咲耶はそう言った。

 計画――東関東大会で金賞を目指す裏で、ほんの一部だけが考えていた、その仕組みを。


「金賞を取ることでみなとくんをこっち側につなぎ止めようなんて、そもそもの考え方としておかしいんだよ。返事は保留してたけど――私はやっぱり、反対。そこには加わらない」

「ちょ、ちょっと待って、宝木さん。みすみすあいつを春日かすが先輩に渡しちゃっていいの?」


 この青写真は、そもそもが『彼』を今度やってくる先輩とつながらせないためのものだった。

 ずっと好きだった人が、数年ぶりに目の前にやってきたら、どうする?

 一年生の頃の彼だったら、迷わずあの元部長の下に走っていっただろう。そのくらいのものを持っていたということは、ここにいる三人の誰もが知っている。

 けれども、今の彼は三年生で、部長で、何より自分たちと同い年だ。

 それだけの時間を過ごしてきた。そしてその年月は、あの先輩よりも長い。

 だからこそ、譲りたくないという気持ちは大きい――そう、光莉は思っていたのだけれども。

 咲耶は少し悲しそうに笑って、同い年の問いにうなずいた。


「……湊くんが選んでくれるのなら、それはそれで構わないよ」

「なんで!? それでいいの、どうしてそう思えるの!?」

「……今の湊くんの状態を、見ていられなかったから」


 先ほどまで話していた、彼のことを思い出す。

 曲に何を込めるのか、それ以外には目もくれずに考えていて、考えていて、考えていて――答えが見つからずに、スタボロになっている彼のことを。

 部長だから、というだけではない。奏者として、自分の納得いくものを作り上げようとしている、大切な人のことを。


「……今の湊くんがさ。どのくらい自分を追い込んでると思う? ちゃんとやろうとして、『音楽的関係と人間的関係を切り離して』、全部大事なものを分解して考えて――そんな人にさ。下心を持って接しちゃ駄目だよ。必死になってる人を、利用しようとしちゃ、駄目だよ」

「……利用しようとしてなんか。ない」


 咲耶の物言いに、反論したのはこの計画の発案者でもある隣花だった。

 彼女なりに、この先のことを考えてのこのプランだ。

 金賞を取る。

 彼を自分たちの元につなぎ止める。

 その両方を得るための仕組みだ。ただただ、自分たちの求めるものを詰め込んだだけ――何もかもが上手くいくように作った、舞台装置。

 機械仕掛けの神様デウス・エクス・マキナ

 良き行いをしたので、その魂は天界へと連れていきます――そんな、そのシステムが使われた物語のことを思い出して。


「利用してるよ」


 咲耶は同い年に、『彼』以外にはほとんど見せたことがなかった、素顔を見せた。


「利用してる。コンクールっていう舞台を使って、金賞っていう道具を使って、何より人の心を役者扱いして――狙った演出を作り出そうとしてる。それが、全部が終わって結果的にそうだったな、と思えるなら私も何も言わないよ。けど、意図してそうしようとしてるんだったら、それはおかしいんだ」

「……狙った効果を出そうっていうんなら、それに見合った配置をするのが順当なやり方でしょう」

「うん。けどその配置と動きが、間違っているのだとしたら?」


 苦しげに言ってくる隣花に、すかさず咲耶は反応した。

 自身すら世界の歯車だとは認めつつ。

 しかし、その動きは誰にも渡さない――そう決めた、吹奏楽の根底と呼ばれるバスクラリネット吹きは、続けて決然と言い放つ。


「根本からして、そもそも組み立てがおかしいよ。音楽的関係と人間的な関係を切り離そうって話だったのに、どうして蓋を開けてみたら動機が密接に絡みついてるの? そうしてるから、ことを伏せながらやってるから、演奏もどこか嘘っぽいんだよ。湊くんのやりたいことと――真逆に動いてるんだよ」

「……っ」

「私たちのやってることは、彼を苦しめること」


 そう判断したから、止めに来た――そう口にする咲耶も、しかし無傷ではない。

 これまでいつも集団の輪に溶けて、にこにこしていた彼女は、こういった正面切った議論には慣れていない。細かく震えて、自身も苦しげに眉を寄せていた。

 けれども、これだけは言わなければならないと――その一念だけで立っている咲耶は、隣花に対して最後の一押しをかける。


「もう止めよう。隣花ちゃん。これ以上は無理だよ。私たちも、みんなも――彼まで巻き込んで、破綻はたんする。それは避けたい」

「……」

「東関東大会の金賞は無理。でなくとも、難しくはなる。そしてそうなるとしたら、もうひとつの目標も達成しにくくなる。――どっちを取るかは、隣花ちゃん次第だけど」

「……」


 合奏の中で、ハーモニーや音色における、重要な役割。

 ホルン。それを担当する隣花は、同い年の言葉に黙り込んだ。

 その頭の中では、目まぐるしく計算が進んでいるのか。それとも、感情が激しく渦巻いているのか――

 外から見ただけでは、分からなかったが。

 それでも、この二人が言い争う光景は、見るに堪えないものがある。

 あまり本音を出さない同い年と、冷静に見せかけて感情が未発達な同い年が。普段あまりこんな風に論争をしない、この二人が。

 友達同士が、ケンカをするというのは。

 光莉にとって、黙ってはいられないところだった。なので吹奏楽の華――トランペットを吹く彼女は、二人の間に割って入る。


「だから……! ちょっと待ってよ、二人とも! ちょっと……落ち着いて! 宝木さんも、なんでこんな、急にキツい言い方を……!」

「……こうでもしないと、間に合わないと思ったから」


 あとは、自分も無傷では済まないって、周りを見てたら思ったから――と、咲耶は未知の舞台に挑むにあたっての、覚悟をのぞかせた。

 その周り、というのは自分たちの学年以外のことも指しているのだろう。

恵那えなちゃんですら、音楽と感情を切り離すことを選んだっていうのに……」と、ひとつ下の後輩のことを口にした。


「私たちがこんな体たらくじゃ、東日本大会どころか東関東大会の金賞だって危うい。だから――いったん、最初に戻って考えよう。私たちが何をしたかったか。何が好きだったのか――それぞれ、分けて」

「……宝木さんは、どう思ってるの?」

「私は」


 光莉の問いに、咲耶はそれだけ言って、いったん言葉を切った。

 それは彼女が、考えをまとめるだけの時間だったのか。

 それとも、友人に向けて発するセリフを躊躇ちゅうちょしたかどうか、どちらだったか――果たして咲耶は。

 少しの間を置いて、担当するソロのように、孤独な自由を口にする。


「……音楽にじゅんじることを選ぶ。そうした方がいいと思う。そのくらいしなくちゃ――きっと、後悔する。そう思うから」

「……それで、いいの?」

「……春日先輩のことに関しては、湊くんに判断をゆだねようと思う。それは彼が自分の意思で、自由に決めることだよ」


 誰が誰を選ぶか、なんてさ。

 結局、そのときになってみなくちゃ分からないんだ。

 色々な理由で、色々な思いをしてきて、その瞬間にどう思うか、なんて――その人自身にしか分からないし、その選択に介入したくないんだ、と。

 既に選択を終えた者として、彼女は苦いものの混じった笑みと共にそう言った。


「……ねえ光莉ちゃん。私は、臆病かな?」

「……違う」

「そっか。よかった」


 光莉の返答に、咲耶は嬉しそうに微笑む。

 安心した――事実を確認した、というよりも、友達からそう言ってもらえてよかった、といった笑い方だった。

 本当のところは、臆病なのかもしれない。陰に隠れてコソコソと、こんなことを話し合っている時点で。

 彼を何が何でも奪いに行こう、と言えない時点でもう、意気地なしなのかもしれない。

 けれども、いつもの態度をかなぐり捨ててでも『良い方』を選択しようとした咲耶を。

 臆病者、とそしることは、光莉にはできなかった。


「……私たちは、音楽でつながった。最初はよく知らなくて、正直今でもよく分からない。けれども、合奏をしてるときは楽しかった。その三年間を、私は取りたい」


 再び元の硬い表情に戻った咲耶は、去る前にもう一度、そう言った。


「正しいか正しくないかは分からない。けれども、私にとってはこれが『正解』。だから、隣花ちゃんにも光莉ちゃんにも、もう一回考えてほしい。……それだけを言いに来たの」

「……」


 すぐに結論など出はしない。

 それはこの場の誰もが、分かっていたことだろう。奇しくも、思惑は違えど全員が――そろって同じく、考えていたことだ。

 沈黙する隣花に悲しげに笑って、咲耶はきびすを返した。

 その背を追いかけることもできず、しかしののしることもできず、ホルン吹きは友達に問う。


「……ねえ千渡。私は、間違っているのかしら?」

「……違う」

「金賞を取りたいと思うことは、間違いなのかしら」

「違う」

「……あいつを誰にも渡したくない、って思う気持ちは、間違いなのかしら」

「違う!」


 単体単体で見てみれば、その思いは決して間違いではない。

 けれどそれを組み合わせたとき、その形はどこかいびつになるのだ。そう、咲耶は忠告しにきた。

 組み立て方と動きがおかしい――そう計画を止めに来た同い年は言っていた。

 そして、どうすればその歪みが取れるかどうかも――


「……じゃあ私は、金賞を取るために、あいつを諦めなきゃいけないの?」

「……」


 間違いなんかじゃない。

 そう言い切ることができなくて、光莉は口をつぐんだ。

 それを言ってしまったら、自分が彼を好きな気持ちさえ否定されるような気がして。


「……正の反対は。そういう単純な話じゃないってことでしょう。そういうロジックで語れるもんじゃ……ないってことでしょう」


 正解と不正解の間にあるものを。ゼロかイチかで判断がつかない、人の感情というものを。

 見つけなければ、自分たちに次などありえない。そう考えて――光莉は不器用な同い年に、ようやくそれだけ声をかけた。

 論理で考えられない部分は、隣花の不得意とするところだ。だから、そんな彼女は――友達は、不安げな顔でこちらを見てくる。それを見て思う。

 これだけは言えるのだ――臆病でも、不器用でも。

 自分たちの思いを守ることは、決して間違いなんかじゃない、と。

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