第320話 花を添える命

「先輩せんぱーい。大変でーす」

「ん、どうした?」


 二年生の宮本朝実みやもとあさみが駆け寄ってくるのに、湊鍵太郎みなとけんたろうは答えていた。

 先日の人の秘密を垂れ流した件については、いつもの通りほっぺたをつねって、手打ちにしておいて。

 普段通りの練習に戻り、楽器を出そうとしたところで声をかけられたのだ。

 どうしたのだろうと思っていると、後輩はその手に持っていた、黒い部品を見せてくる。


「マウスピースが割れました」

都賀つが楽器店を呼べえぇぇぇぇ!!??」


 音を出すのになくてはならない、重要な部分が破損していることに。

 鍵太郎は頭を抱えて、そう叫んでいた。



###



「はーい、呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!☆ 楽器屋のお兄さんの登場だよー!」

「もはや突っ込む気力にもなれませんよ、都賀さん……」


 連絡をしたらわりとすぐにやってきた、楽器屋の都賀にボソリとつぶやく。

 この学校近くの楽器屋の店主は、部活にとって便利屋であると同時に、鍵太郎にとっては因縁のある相手だ。

 部長になるにあたって、彼の方向性と考え方は大いに参考にさせてもらった。

 失敗すらも織り込んで、さらによりよいものを目指していくこの個人営業主は、身近な『強い大人』――ある意味では、尊敬しているといってもいい人物である。

 もちろん、商機を見つけるとグイグイ来る、その強引さを除けば、だが。

 今回も都賀は、これを契機に様々なものを売りつけにきたに違いあるまい。しょうがなかったとはいえ、あまりこの人に借りを作りたくないんだけどな――と、鍵太郎が思っていると。

 朝実から壊れたマウスピースを渡された、都賀は言う。


「あー。いってるねー。パッキリいっちゃってるねえ。これはもう、買い替えしかないよ。当たり前だけど、この部分に補修はきかない」

「ですよね……。経年劣化、ですか」

「まあ、そんなものかな」


 後輩の楽器はもちろん学校のもので、だけあって代々受け継がれてきた、古いものだ。

 使い続けていれば、いつか壊れる。そこから部品を新しいものに変えて、少しずつ生まれ変わっていくんだよ――と言ったのは、そこにいる楽器屋だが。

 朝実の楽器にも、ついにそのときが来たということか。まあ、そうなったそもそもの原因は、実はこの後輩が手を滑らせてマウスピースを床に落としたからなのだけれども。

 それは直接的な要素ではないだろう。最後の後押しをしてしまっただけだ。

 当の本人は、「ほえ? セロテープでくっつけたら大丈夫なんじゃないですか?」などと、とんでもないことを言っていたのだが。

 それでどうにかなるなら、楽器屋はいらないのである。なんというか、彼女の中でセロテープと楽器がどういう位置づけになっているのか、切に問いただしたいくらいではあるが――

 今は、そうするところではない。電話をしたときに、ある程度の説明はしておいた。

 なので都賀は、荷物の中からいくつかの新しいマウスピースを取り出す。


「というわけで、店からいくつかよさそうなものを持ってきたよ。コンクールシーズンも大詰めだし、四の五の言ってられないでしょ。さあ、買った買った」

「それしかありませんよね、もう……」

「ついでに、リガチャーも新しいのどうだい? ほら、これなんかオススメだけど」

「わー。ピカピカ光ってきれいですー!」

「騙されちゃダメだからね宮本さん!? この悪徳商人、人の弱みに付け込むのが大得意だから!」


 なんだか高級そうな光沢を放つ、とっても繊細な作りの楽器部品に手を伸ばす後輩に、慌ててそう注意をしておく。

 リガチャーは金管楽器には縁のない部品だけに、余計に取り扱いに注意しなければならないものに思えた。今回も楽器を落としたからという、事の発端が発端だけになおさらだ。

 朝実の雑さも雑さだが、都賀のやり口もやり口である。まあ、彼の場合はそれでも、両方がウィンウィンに持っていけるよう考えているだけ、親切ではあるのだけれども。

 そのウィンウィンの割合が、どうにも不公平に感じられてしまうのは、この楽器屋のうさんくささのせいか。

 そんな都賀は、肩をすくめて「まあ、好きにするといいさ」と持ってきた部品たちを並べた。


「そりゃあきみ、学生さん相手にそんなムチャクチャな値段のものを持ってきたりはしないよ。今回のも、試奏用だし。いくつか組み合わせを試してみて、気に入ったものを選ぶといい。さ、どうぞ」

「わーい! せっかくだから色々吹いてみまーす!」

「こういう、ついで買いさせるの上手いよな、この腐れ楽器屋……」


 いい性格をしている、というか開き直っているというか。

 かつてその利益と弱みを天秤にかけたやり取りをしているだけに、どうしてもそんな風に思ってしまう。

 まあ確かに、誰かが楽器周りの品を新しくすると、自分も何かが欲しくなったりはするものだけれども。それを巧みに利用しているこの楽器屋は、本当にしたたかだ。

 それは昔、彼が抱えていた弱さに起因するものだったそうだが――その『弱さを強さに変える方法』を教えてくれた都賀は、鍵太郎に言う。


「さて、調子はどうだい?」

「……まあまあ、ですね」

「それは重畳ちょうじょう


 こちらの返答に、楽器屋は軽く笑ってうなずいた。

 もうかりまっか、ぼちぼちでんな――みたいな。

 そんな会話のつもりだったのだろうか。まあ、悪くはなっていないということは、いいことなのだろうけれども。

 これは商売としての問いかけなのだろうか、それとも個人的な世間話なのだろうか。

 判断しかねていると、そのまま都賀は続けてくる。


「きみも最後のコンクールなんだろう。だったら、後悔のないようにやりたまえよ。まあ、言われなくても分かってるだろうけどね」

「そりゃ、そうですよ。じゃなきゃ、都賀さんにあんなに炊きつけられた甲斐がありませんから」

「はっはっは。言うようになったねえ、きみ」


 それだけの口が叩けるなら、もうこの先は心配いらないだろう――と、コンクールの結果のことだろうか、それとも自分の将来についてのことだろうか。

 楽器屋はそう言って、上機嫌に笑った。

 近くでは朝実が、同じく上機嫌にあれがいいこれがいいとはしゃいでいる。

 それを横目に、都賀は言う。


「だったら、もう次のための準備を始めようか――後継者は見つかったのかい? それとも、まだ?」

「後継者? 俺が三年で卒業しちゃうから、チューバには空きが出ないように、一年生を入れましたけど……」

「違う違う。そっちじゃないよ」


 かつて、『春日美里かすがみさとの後継者』と言われたことに引っ張られて、そちらに頭がいってしまったが。

 楽器屋が言いたいのは、どうもそういうことではないらしい。後継者という意味でいえば、あの小さな同じ楽器の後輩も、十分後継者なのだが――違うとしたら、彼は何を言いたいのだろうか。

 首を傾げていると、都賀は笑いながら言ってきた。


ってことさ。県大会を抜けようが抜けまいが、どっちにしろコンクールが終わったタイミングで、それは決めなくちゃならないんだろう? どうかな、そろそろ目星はついてるんじゃないか?」

「あ……」


 楽器屋の指摘に、思わず声がもれる。

 そうだった、そういえば東関東大会に行こうが行かまいが、それについてはもう少しで決めなければならないのだった。

 都賀と部長になる前に、話し合ったことが懐かしく思える。そうなのだ。この重責を、今度は別の誰かに預けなければならない。

 部長選については部員たちの投票で行われるため、こちらが推薦したところでどうしようもないが――確かに、ある程度はこの段階で、候補を絞っておいた方がいいのかもしれない。

 そしてこの楽器屋としても、次の部長が誰になるかは早いうちに分かっていた方が、都合がいい。

 その方がこういったトラブルが起こっても、連絡を取ってスムーズに動ける。相手の温度や求めていることも、大体把握できる。

 顧問の先生がいるとはいえ、実際に楽器を扱うのは生徒の方だ。

 だったらその代表者の顔を、できるだけ早く知っておきたいと思うのは商売人として当然だろう。やはりその辺は抜け目なく――そして素早く仕掛けてくる都賀に、舌を巻く。

 目の前の本番にいっぱいいっぱいで、さすがにそこまで考えていなかった。

 まあ、彼としてもこの段階で分かれば御の字、といったところだったのだろうが。

 こちらの反応に楽器屋は、「了解。でも決まったらその時点で教えてほしいな」と落ち着いた口調で言う。


「この学校は近所だし、よくしてもらってるからさ。やっぱり今後もサービスしておきたいわけだよ。これからもきみの後輩たちは、僕が主に物理的な面で援助していくから、安心してくれたまえ」

「いや都賀さん。それって明らかに金銭と引き換えにってやつでしょ。分かってますよ」

「いやー。ばれたー?」


 どこまでいっても商売人な都賀は、しかし憎めずに苦笑いしてしまう。

 この楽器屋と渡り合っていけるだけの後輩が、この部活にいただろうか。

 何人かの顔を思い浮かべて鍵太郎が首を傾げていると、都賀は息巻いて続けてくる。


「ここできみらが金賞県代表、となれば、部員もたくさん入ってきて、必要なものも増えて。それをウチから買ってもらうっていう理想の構図が出来上がるからね! いやあ、楽しくなってきたなあ。ねえねえ、コントラバスサックスっていらない? 世界的にも珍しくて、高いものだと五百万円くらいするんだけど――」

「いらないですよ!? ていうかなんだか今日の都賀さん、テンション高くありません!? 仕事しすぎておかしくなっちゃったんですか!?」


 ベラベラと自分の希望を述べてくる楽器屋に、つい叫び返す。

 今日最初に会ったときから思っていたが、妙に都賀の機嫌はよすぎないだろうか。

 コンクール前で忙しすぎて、ネジが何本か飛んでしまったのだろうか。恐れおののいていると、楽器屋はこちらを向いて、にへら、と笑った。

 その笑みは、かつてこの音楽準備室で鍵太郎を震撼させたときと同じくらい、迫力のあるものだったのだが――

 その表情に顔を引きつらせていると、都賀は言う。


「いやー。ばれたー? 実はねえ……」

「……実は?」

「彼女が、できました☆」

「散れ、この腐れ楽器屋がぁ!!」


 仕事に忙殺されていたのかと思いきや、実はただ単に頭の中がお花畑だった楽器屋に、思い切り突っ込む。

 人が幸せな気分でいると、こうもまとう雰囲気が変わるのか。

 そして周囲は、こうも殺気で包まれるのか。そういえば都賀の終生のライバル、彼と同い年のあの指揮者の先生とは本当に何から何まで正反対だと、鍵太郎は思う。

 自分の前で彼女に振られた、とヤケ酒をして倒れていたあの先生と、彼女ができたと告白してきたこの楽器屋は対照的だ。

 圧倒的な才能に恵まれた強者と、夢破れて地に落ちた敗者。

 けれどもその行く末は、本人たちにも予想がつかないのだろう。まあ、この先また、その立場は逆転するのかもしれないが――世の中、本当に何が起こるのか分からない。

 どうなるかは分からないけれど。

 もし、自分にも彼女ができたら、こんな風にふわふわ笑えるのだろうか。

 そんなことを考えていると――都賀は。

 今も自分の道を歩き続ける、したたかな楽器屋は、その胸に花を抱えて言ってきた。


「まあ、なんだ。僕の経験から言うとね。意外と身近で、人に助けを求めた先に――そういう人って、いるもんだからさ」

「……それは――」

「例えば」


 あの子なんて、どうなんだい――と。

 再び鷹の目のような眼差しになった都賀は、近くで楽しげにマウスピースの試奏をする、後輩を指してくる。

 そんな未来は、あり得ない――と、彼に向って断言するには。

 あまりにこの楽器屋の人生は、数奇なものでありすぎた。

 彼の前でその歩みを否定したくはない。だからこそ鍵太郎が、声を出せずにいると――


「先輩せんぱーい! 聞いてください、このマウスピースなんかどうでしょう!?」


 朝実がキラキラピカピカの中から、ひとつを選んだのだろう。

 目を輝かせて、楽器を持ってこちらに寄ってきた。

 少しずつ形を変えて、生まれ変わっていく命。

 そんな風に、あまりに身近で、そして素直に人に助けを求められる彼女は――


「……大変だ。それでいいのか、俺と、この部活の未来は」

「ほええ。何を相変わらず、訳の分からないことを言ってるんですか? 変な人ですね!」


 ひょっとしたらひょっとして、誰かと周りの未来に、花を添えられる存在になるのかもしれない。

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