第23幕 花束を、きみに
第314話 冷たいマウンテン
「こんなところに、かき氷屋さんがあったんですね……」
と、『氷』と書かれた揺れる旗を見上げながら。
コンクールも県の予選が終わり、無事本選まで進んだところで、いったん小休止。
部員たちそろって、ささやかな打ち上げをということになったのだ。相変わらずエアコンのない音楽室で楽器を吹きたくっている自分たちにとって、冷たくて甘いそれは何よりの癒しである。
去年は来られなかっただけに、芽衣のような一年生だけでなく、二年生の後輩たちもはしゃいでいた。
「なんにしましょう!? なんにしましょう!? マンゴーかな!?」「さくらんぼ……」と、バリトンサックスの後輩とクラリネットの後輩が、お品書きを見上げている。
そんな部員たちを見て和みつつ、鍵太郎も店内にあるシロップ表を眺めた。なんだか二年前に来たときより、種類が増えているような気がしないでもない。
値段は爆安、なのに大盛り――と、学生にも嬉しいこの店であるが、それなりに変化というか、色々考えてやっているらしい。
そうだな、自分も以前やってきたときとは、外見も中身もちょっと変わってるだろうしな――と思いつつ。
鍵太郎は、同じくカラフルなメニュー表を見上げる芽衣に言った。
「大月さん、なに頼む?」
「ええと。桃にしますかね」
「いいねー」
薄いピンク色をした、そのシロップは花のようで、先日の予選での演奏を思い出させる。
そんな自分たちの曲は――『プリマヴェーラ』は、イタリア語で『春』という意味で、まさにその色が相応しかった。
後輩は店員にシロップをかけてもらって、まるで山中に桜の花が咲き誇っているかのようになったかき氷を、いつもより少し軽い足取りで持っていく。
彼女もそうだが、部員みなの目がそれぞれの色を前にして、キラキラと輝いているように見えた。
まあ、ただ単にそこのアホの子のように、食欲のせいかもしれないけども。それでもこれまで目にしたことのないものを前にして、楽しそうなことは確かだ。
そして思い切りカップの中のものをかき込んで、キーンとした頭痛を味わって、笑い合うまでがセットである。さて、自分は何を頼もうか――と改めてお品書きを見上げ。
鍵太郎はそこにある、ひとつの味を選んだ。
「すみません。コーヒーをひとつ」
以前は食べられなかったそれも、今なら口に入れることができる。
まあ、相変わらずミルクと砂糖をたっぷり入れないと飲めないのだけど。というわけで練乳をトッピングしてもらって、鼻歌を歌いたいくらいの気分で席に着く。
茶色いそれは、花を育てるための土の色だ。
全員の根底を支える
あの第二の師匠――バスクラリネットの先輩にあやかって、というのもあるが。
この間の演奏より、もっともっと綺麗な花を咲かせたいという思いが強かったのだ。
すると、同い年の
「何? あんたがそんなものを頼むなんて。雪でも降るんじゃないの?」
「かき氷だけに、ってか。うるせーぞ」
夏休みにも入り、この真夏に雪が降るなど、普通だったらあり得ない。
けれども隣花にとっては、そのくらいこちらのチョイスは予想外のものだったらしい。しげしげとその茶色い山を見て、「何か心境の変化でもあったの?」と訊いてくる。
「あんたが。そんな甘くないものを頼むなんて。まあかき氷のシロップって、色付けだけで実は全部、味は一緒だって聞いたことはあるけど」
「相変わらず夢も希望もないことを言うな、おまえ……。い、いや、でも最近は、果汁を入れてちゃんと風味が付いてるものだって、あるという話を聞くし」
そう言う隣花の持つかき氷は、薄い紫色――ぶどうというか、彼女の場合はブルーベリーかもしれない。
「ほら。なんだか、目に良さそうだし」などと言いそうなくらい、行動原理が機能寄りのこの同い年だ。
まあ、その当の本人は味は全部一緒ではないか、などと効用もへったくれもないことを言っているけれども。それでもひょっとしたら、ちょっとだけでもエキスが入っていて、何かしら効果があるかもしれないではないか。
そんな風にロマン寄りのことを考えるあたり、心境の変化というよりは、夢を持ったまま新たなステージに踏み出そうとしていると言ってもらいたい。
すると、こちらの反論に隣花は、その切れ長の目を呆れたように細める。
「新しいステージ……ねえ。分かってるとは思うけど、この先の道のりはもっと険しいと思うわよ。県大会本選。そっちは当たり前みたいに予選を抜けてきた学校ばっかりが、集まってくる。いつまでも呑気なことを言ってられるほど、甘いところではないと思うけど?」
「分かってるよ。だからこその、この多少のほろ苦さ加減だ。気つけ――っていうか、俺なりのケジメだよ。これからは、これまで以上の何があってもおかしくない。だから、そんなことに負けないくらいの覚悟を決めとこうと思ってな」
目標は、県大会金賞――そして、東関東大会出場だ。
去年の自分たちの成績を超えることは、容易ではないだろう。見たくないものを見て、ぶち当たりたくない現実と向き合うことになるかもしれない。
けれども、そんな清濁は呑み込んで、進んでいこうと自分は決めたのだ。
思えば部長になったときから、ずっとそうだった。
それがほんの少しだけ期間を経て、形を変えただけの話だ。
同い年とのやり取りに、テーマパークの湖のほとりで、二人で話したことを思い出す。
あのときも隣花は、こちらの認識の甘さを指摘してきた。
そして、そこから話し合うことになったのだ。今のように――ここからは、夢だけでは通用しないと。
そのときも『それだけ』ではダメだと言っていた彼女は、やはり処置なし、といった風に息をつく。
「分かってるなら。まあいいわ。どうせ言っても聞かないんだろうし。これ以上は平行線。だったらこの話題を続けるのは、時間の無駄ってことでしょう」
「悪いな、付き合わせちまって」
いくら理想を掲げても、自分の乗っているものは、いずれは沈む泥舟だ。
それを隣花は知っている。そして船底からしみ出してくる水を、こちらが一生懸命かき出しながらやっていることにも、気づいている。
それが、いつまで持つのか――ただの人力で浮かんでいるそれが、どこまで進んでいけるのか。
その船には自分も乗っているのだから、沈ませるわけにはいかない。
そう言っていたこの同い年は、あれから戸惑い、ときにこちらの行動に鋭い言葉をかけつつ共にやってきて。
一緒に水をかき出す作業を手伝ってくれて、彼女なりの論理とルールで、
なんだかんだ文句を言いつつも、隣花はこちらの信念に、一定の理解は示してくれている。それが根負けしたからなのか、それとも他の理由があるのかは分からないが。
少なくとも彼女が考えていることよりも、自分のやり方が非効率なことは間違いないのだ。同い年の物言いに、鍵太郎は申し訳なく思いつつ苦笑いする。
でも、そう口にしつつも、それでも譲れないと思ってしまうあたりが自分のエゴだった。
それを自覚しながら、テーブルに置いた土色のかき氷に、手を付けようとすると――
ふいに隣花が、何かを思いついたように目を見開く。
「あ。でも、ちょっと待って」
「?」
一体、彼女は何をひらめいたのだろうか。
今の会話に、どこかこの同い年の思考に引っかかることがあっただろうか。いや、冷静で論理的な隣花のこと、先ほどのやり取りだって平行線――それ以上に話題を続けることは、無駄だと分かっているだろう。
だったら、彼女は何をしたいのだろうか。
そう首を傾げつつ同い年を目で追っていると、隣花は自分の分のかき氷を手に取り、店員のところに行って、何やら話し。
そしてどうやら、トッピングをしてもらったのだろう。追加の料金を払って、そのままこちらに戻ってきた。
見た感じ、どうやら練乳を足してもらったようだが――と、鍵太郎が再びテーブルに置かれた、同い年のかき氷を観察していると。
隣花はその氷の山を指差して、言う。
「ほら見て。富士山」
「……!?」
薄紫の氷山の上に、白い冠を被ったそれは。
言われてみれば、富士山に見えなくもない。
いや、でも――と、同い年の言動に驚いていると、隣花は続ける。
「
「いや……ついていくどころか、完全に追い越してるような気がするんだけど、でも」
問題は、そこではない。
確かにこの同い年の言う通り、そこまで想像が膨らませられるようになれば、他の部員たちにも引けを取らないくらいの印象的な演奏ができるようになるだろう。
それはいい。しかし、この驚きの本質はそれではないのだ――そう思って、鍵太郎は言う。
「なんだよ。おまえがそんなことするなんて、それこそ雪でも降るんじゃないか?」
あの、片柳隣花が。
理性的で論理的で、ともすれば機械的とすら取れるくらいのこの同い年が、こんな茶目っ気のあることをするなんて。
それこそ、どういう心境の変化だろう。そうか、先ほどの彼女のリアクションは、このくらいの衝撃だったのか――と、予想外の事態に固まっていると。
隣花はこちらの様子に、肩をすくめて言ってくる。
「あら、知らなかったの? 富士山は、七月でも頂上は凍るんだって」
「いや、それは知らなかったけど……ああ、そうなんだ。やっぱ標高が高すぎると、今くらいでも寒いんだな、ああいうところって……。って、違う。そうじゃない。おまえがそんな洒落たことするなんて、思いもしなかったから驚いたんだよ」
この真夏に雪が降るなど、普通だったらあり得ない。
けれども、彼女は自分の目の前で、そんな常識をくつがえしてしまった。
そんなことが
夢も希望も持っていないけれど。
それが『実際にある』と知ってしまえば、この同い年はこんなことだってやってのける。
しかしだとしても、この光景は天変地異の前ぶれといってもいいのではないか――そんなことを考えつつ、隣花の前の薄紫の山を見ていると。
彼女はこちらの、茶色のかき氷を指して言う。
「別に。お互い様じゃない? あんたがそういうものを頼むんだから、こっちだってこういうことをしても、そこまでおかしくはないでしょう」
「まあ……そうか。そっか、そうだよな」
こんなところにかき氷屋があるのか、と、あの後輩は言っていたけれども。
こんなところに、富士山だってあったのだ。
知らないだけで、自分たちは何かと何かを組み合わせて、びっくりするくらいのものを作り上げることができる。
理想だけで、船は進んでいかない。
けれども、現実だけでもそよぐ風はない――それを、これまで一緒に過ごしてきた時間から知ったのであろう、同い年は。
「……まあ。私も、多少は甘くなったのかもしれないわね」
そう言って、ブルーベリーのシロップをかけたかき氷に、スプーンを突き立て。
それを口に運び、しかしまんざらでもないといったように、小さく笑った。
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