第267話 先輩ってそういうもの

 そして、初合奏の一曲目が終わって。


「ふー。とりあえず、なんとかなったか」


 湊鍵太郎みなとけんたろうは、一息ついてそう口にした。

 今は、今月末の本番に向けての合奏中だ。新一年生が本格的に入り、どうなるかと思ったけれども、演奏はそれなりに形になっていた。

 後は各々、この調子で気になった点などを直していけばいいだろう。

 そう思って、鍵太郎が隣を見ると――

 同じ楽器の一年生、大月芽衣おおつきめいが下唇を尖らせていた。


「え……」

「……全然、できなかったです」

「えぇぇぇー!?」


 後輩が不機嫌そうなのにまずびっくりしたが、それ以上に彼女の発言に驚く。

 先ほどの芽衣の演奏を聞いていて、むしろこちらとしては、入部したばかりなのによくここまでやると思ったくらいなのだ。

 細かいミスはあったが、それを補って余りある吹きっぷりだった。さすがは、中学からの経験者というところか。自分が一年生の頃なんて、初合奏のときは散々だったのに。


「そんなに驚かれると逆に傷つきます。なんだか、自分がまるで初心者で入部してきたみたいで……」

「やめろ、その攻撃は俺にも効く」

「……はあ。まあ、なんというか……やっぱり、吹きにくくて。何回もミスしてしまいました。ごめんなさい……」

「……」


 ごめんなさい、ごめんなさい――と何度も繰り返す芽衣に、何か理不尽なものを感じて、鍵太郎は眉をしかめた。

 それは、この後輩の態度が気に入らないのではない。

 彼女をここまで卑屈にさせているものが、気に入らないのだ――それを自覚して、眉間を揉みながら芽衣に言う。


「……あんまり謝らなくていいよ。さっきは、大月さんがいてくれて本当に助かった。前にも言ったけど、俺はしばらくずっと、一人で吹いてたからさ。誰か同じ楽器の人がいるっていうだけで、すごくありがたいんだよ」


 この後輩がこういった言動に出るのは、彼女が中学のとき、その小柄な体格からこの楽器に向いていないと言われ続けたせいだろう。

 芽衣が音楽室にやって来たとき、彼女はそんな話をしていた。

 そしてこの後輩はあのときも、これと似たような顔をしていたような気がする。

 だったら、ここはもっと安心できる場所なのだと、この新一年生に伝えなければならない――そう改めて思い、鍵太郎は続ける。


「間違えることは誰にだってあるし、それはこれから、段々直していけばいいんだ。本番でできればいいの。俺だって、さっき完璧に吹けたかって言われたら、そうじゃないしさ」

「でも」

「でも、じゃない」


 出せば官軍――なんて、かつての卒業した先輩たちは言っていたくらいなのに。

 どうしてこの後輩が、練習で吹けなかったくらいでこんな顔をしなければならないのか。

 そんな言い知れぬ苛立ちを覚えながら、鍵太郎は芽衣を見た。確かに、楽器の大きさに身体が合っていない。物理的なハンデがあるのは明白だ。

 横から見ていると、どうしても姿勢に多少の無理があるようには感じられる。それが彼女の言う、吹きにくさの原因かもしれない。

 けれどそれを一緒に直そうともせずに、「できないのは向いてないからだ」――なんて、どの面下げて言っていたのか。

 先ほどの芽衣の音を思い出す。お世辞抜きで、この後輩は上手い。

 だったら、と思う。こんなに吹ける子を伸ばしてやれなかったのは誰だ。自分自身だけでは見えないところを、指摘してやらなかったのは誰だ。

 怒りに沸騰しそうな頭で、思う。


「いいかい、そういう意味では俺も、できない先輩なんだ。入部するときも言ったよね、できないことがあるなら、一緒に考えようって」


 こんな悔しくて泣きそうな子を、助けてやらなかったのは、誰だ。

 こうなる前にどうにかできなかったのかと、自分の迂闊さを責めたくもなる。これで先輩面なんて、できるはずもない。

 自身に活を入れるつもりで、大きく息をつく。なんとかなんて、なっていない。全然できてないのは、こっちも同じだ。

 様々な方面への怒りを、鍵太郎は硬く絞って押し込めた。そしてそれには、後輩を怖がらせないようにという意味もある。

 なにしろ先ほどから、一年生が不安そうにこちらを見上げてくるのだ。そんな顔を後輩にさせてしまうあたり、本当にまだまだだなと苦笑いするしかない。

 彼女相手に説教ができるほど、まだまだ自分は偉くないのだ。

 それを思い知らなければ、おちおち先輩なんてやってられるはずもなかった。

 改めて、同じ楽器に後輩ができたのだということを、鍵太郎が身に染みて実感していると――

 こちらの表情の変化に気が付いたのだろう、それまで戸惑っていた芽衣がおずおずと「……あの」と言ってくる。


「私は……その。いるだけでいいとは、思わないんです。いるんだったら、役に立ちたいんです。

 だから……い、一緒に、です。はい……ええと。一緒に……考えてくれると、嬉しい、です。……はい」

「うん。そうだね」


 か細い声で言ってくる後輩に、鍵太郎はうなずいた。

 がんばりたい、役に立ちたい。

 それはこちらも一年生のとき、強く思っていたことでもあるのだ。

 それを思い出させてくれた新一年生に、ありがとうと心の中で礼を言う。こういうのもやはり、今までのように一人では気づかない部分だったろう。

 どこかで、この後輩を世話してやらねばと思っていた自分を、心の中で蹴り上げる。

 できない部分は、先輩だろうが後輩だろうがお互いに指摘し合えばいい。

 かっこ悪くてもなんでも、この子と一緒に成長していくしかないのだ――そう覚悟して、鍵太郎は意識を切り替えた。


「さあ、もう次の曲が始まるよ。準備準備。ああ、なんか楽しくなってきたぞう」

「……そう言いながら、なぜズボンのベルトを緩めるのですか」

「え? だって呼吸しにくいし。俺の先輩には苦しいからって、ブラジャーのホック外してる人もいたけど」

「変態!?」


 事実を述べたまでなのだが、後輩にはなぜかドン引きされた。

 というか、変態とは随分ではないだろうか。同じ楽器のあの先輩はともかく、自分をあの変態紳士と一緒にしないでほしいのだが。

 そう思いつつ、「し、しかし、下着を外す、ですか……。意外とアリなのかもしれませんけど。けど、それをやってしまったら何か色々なものを失ってしまう気が……」などと、ぶつぶつ言う芽衣を見る。

 一緒に成長しようとは思ったが、こんなジャンルまで一緒に伸びなくてもいい。

 そう言おうと思ったけれど、もう次の曲が始まるので口にできなかった。けれども、そんな後輩のリアクションに――


「……ふふ」


 まだまだ青いなあと思ってしまうあたり、それが先輩というものなのかもしれないと、鍵太郎は密かに思ったりもした。

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