第250話 手間かけさせろ

「『福寿荘ふくじゅそう』に行くんですか?」


 音楽準備室で言われた単語を、湊鍵太郎みなとけんたろうはそのまま返していた。

 福寿荘。

 部活で毎年春に演奏しに行く、老人ホームの名前だ。

 思ったより早く出てきたそれに鍵太郎が驚いていると、顧問の本町瑞枝ほんまちみずえが荷物をまとめながらうなずく。


「ああ。今度の慰問演奏の打ち合わせでな。どんな曲がいいとか、時間とかの打ち合わせをしてくる。そういえば、何かやりたい曲あったら言えよ? 毎年同じのばっかりやってても、聞いてる方もつまんねえだろうからな。あとはコンクールでやりたい曲とかも、そろそろいくつか候補を挙げとけ」

「そ、そうですね……。そういうのも、もう考えないとですよね……」


 既に来年度を見据えている先生に、鍵太郎は戸惑いを覚えつつそう返事をした。

 しかし自分でそう口にしたはいいものの、まだ意識がそちらへは向かない。

 当然だ。ついさっき、卒業式の曲を練習し始めたばかりなのだから。

 今ここに来たのだって、そのとき卒業生に渡す色紙を、自分が買ってこなければならないのかどうか確認したかったからで――


「……あの、ちょっと訊いていいですか、先生」


 気持ちを置いて状況だけは、どんどん進んでいってしまう。

 そのズレになんとか追いすがるため、鍵太郎は本町に質問をすることにした。


「先生はどうしてそんな風に、割り切って行動できるんですか?」


 別にこの顧問の先生のことを、非難したいわけではない。

 本町が生徒のことを決してないがしろにしないことは、これまでの言動からよく分かっている。

 ならば教え子たちの卒業を前にして、どうしてそんなに淡々と動けるのか。

 目の前のひとつひとつをこなすので精一杯の自分に、教えてほしかった。

 すると先生はぴたりと動きを止め、少し考えてから言ってくる。


「……なるほどな。おまえからしたら、そう見えるか」

「いや、あの、俺は先生が冷たいって言ってるんじゃないですよ? ただ気持ちをどう切り替えていいか、よく分からないだけで……」

「まあ、そりゃそうだろ。アタシだって卒業式当日に泣かねえかって訊かれたら、分かんねえよ」

「あ、そうなんですか」


 去年も先ほどの合奏でも、本町は欠片の動揺も見せなかった。

 しかしそんな先生も、やはり内心では卒業生たちに思うところがあるらしい。

 初めて聞いた大人の本音に鍵太郎がほっとしていると、荷物を再びまとめながら、本町は言う。


「手間をかけさせてくれた奴ほど可愛い、なんて言葉もあるがな。アタシからすれば、貝島の代も春日の代も、大して変わらねえさ。どっちの代も、随分やらかしてくれたもんな」

「そ、そうなんですか?」


 懐かしむようにクツクツ笑う先生に、頬が引きつった。

 あの二つの学年は、こちらからすればだいぶ違う印象なのだが。

 しかし本町にとっては、どちらも同じようなものらしい。「そうさ」と何かを思い出したのか、先生は破顔一笑する。


「一学年違うと、見方が全然違うからな。おまえがそう思うのも無理はねえよ。けどまあ、アタシは離れすぎてるし、どの学年も最初から見てるからな――どいつもこいつも全員、うちの可愛いガキどもなのさ」


 それでも、と。

 動かす手は止めず、本町は続けた。


「それでもこうやって動くのは……何だろうな。他にも求められてるものがあるから、かな」

「……」


 他、とは。

 紛れもなく自分たちのことであり、これからのことなのだろう。

 卒業生がみんな同じ生徒なら、こっちだって同じだ。

 そのことにようやく気づいて、鍵太郎は沈黙した。

 つまりこの先生は、これからの自分たちのために、こうして動いてくれているのだ。

 それなのに、どうしてそんな風に割り切れる、なんて訊くのもおこがましい話だった。

 そのまま黙っていると、本町はしかし「ああもう。馬鹿おまえ、勘違いすんなよ?」と、苦笑を交えて言ってくる。


「別れはいつか来るもんだ。それを悲しんでたってしょうがねえ」

「……先生」

「だったらグダグダ言ってねーで、アタシはアタシのできることをやるだけだよ。ていうかそうしねーと、他のいろんなとこが滞るからな」


 それこそこれから先、おまえらがやることにまで――と。

 支度が整ったのか、先生は荷物を提げて、こちらに向き直る。


「そんじゃ、行ってくるわ。ああ、色紙だったな。それはアタシが、帰りにでも買ってくるさ」

「あ……すみません」

「大丈夫だ、手間かけさせろ」


 手間がかかる奴ほど、可愛いのなら。

 おまえはもっと、アタシに手間かけさせろ――そう言って。

 本町は片手を上げて、部屋を出て行った。

 打ち合わせの時間もあるのだろう、足音はすぐに聞こえなくなってしまって――でも。

 こちらに対して手を上げたその後ろ姿は、未だこの目に焼きついている。


「……ああくそ、かっこいい」


 ああいう大人になりたい。

 そう夏休みに思ったことを思い出し、鍵太郎はうつむいて、でも肩を震わせて笑った。

 決まっていることは決まっていることで、仕方がない。

 けれどもそれを受け入れて背負っていく大人の、なんとかっこいいことか。

 大丈夫だ、手間かけさせろ――なんて。

 そんなことを言える人間に、自分もなりたい。


「……ん!」


 だったらそのためには――と、頬をパンと叩いて、意識を切り替える。

 目の前のひとつひとつをこなすので精一杯で、だからどうした。

 だったらそれこそグダグダ言ってないで、自分のできることをやるまでだ。

 ついさっき言われたように、曲決めやら新入生歓迎の準備やら、やるべきことは山のようにある。

 まあその過程で、あの先生にはこの先ちょっと、迷惑をかけてしまうこともあるかもしれないけれど――

 それはそれで、自分たちが卒業するときあんな風に笑っていてくれたら、それでいい。


「よし、じゃあまずは、今度やる曲について調べてみるか」


 淡々となんて動けはしない。

 動揺しないなんてこともあり得ないけれど――

 それでもこの先、少しは自分も、誰かが頼ってくれる人間でありたいと。

 そんな思いで、鍵太郎は行動し始めた。

 先生が行った、あの施設の名前のように。


 これから芽吹くその季節で、花を咲かせるために。

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