第248話 空に吹く風

「よーしおまえら、準備はできたかー?」


 居並ぶ舞台上の生徒たちに、顧問の先生はカメラをセットしてそう言った。

 二校の合同バンドの部員たちを見回し、湊鍵太郎みなとけんたろうは両腕で先生に丸サインを送る。

 今日はこれから、テーマパークに送るオーディション映像を撮るのだ。

 こちらの合図を確認して、先生は三脚の前に改めて陣取った。

 そしてカメラを見つめる生徒たちに、不敵な笑みで大きく呼びかける。


「今回の撮影は、一番いいものを先方に見せることになってる。撮り直しは何回でも利くぞ。だから今日は間違えていいから、思いっきりやれ!」


 その声に元気よく返事する者、苦笑する者。

 様々な反応が示されたが――憮然とした顔をする者や、反論したりする者はついぞ現れなかった。

 風通しがいい。

 そのことを自覚して、鍵太郎は笑った。

 思いっきり空気を吸い込んで、楽器を構える。

 このステージ上に今、無粋なものは何もない。

 ならば、夢と現実の狭間で揺れ動いていた、この数ヶ月。

 そこにあった楽しい日々を、ここで存分に歌い上げよう。



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 最初は、蒼い空を見上げる海底から始まった。

 光り輝く天井とは違い、そこは暗くて何も見えず、何も聞こえない。

 誰もいない水中で、一粒の真珠だけを握り締めて――どこかに、この綺麗さを分かってくれる人がいるんじゃないかと。

 ただ一人で泳ぎ続けていた。

 そのうちに誰かと出会っても、上手く説明できずに、なかなか理解してもらえなくて。

 そんなものはおもちゃだと言われても、それでも進むしかなかった。

 時に鏡のような水面に、自らの姿を捉え。

 濁りかけた流れに飲まれそうになりながらも。

 かそけき声に耳を澄ませ、自分の声すら潜めて――

 ただひたすらに、目指す方向へ。



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 そうしているうちに、いつの間にかいろんな人と出会っていて。

 馬鹿みたいに同じことを繰り返し話していたら、なんとか少しは、分かってくれる人も出てくるようになっていた。

 やりたくて、できそうで。

 それをどうにかもっと、形にしたくて。

 幻夢のようにたゆたう波間から、真っ直ぐに伸びる道を進んでいく。

 気が付けばとっくに暗闇は晴れていて、辺りに映るのは楽しい思い出ばかりだった。

 一緒に吹いている人々はそのどれもに姿を現していて、今も現在進行形で新しい音を出し続けている。

 そんな彼女たちを見て――

 鍵太郎は、ああ、楽しいなと思った。

 別に抱えている物が、おもちゃでも何でもよかったのだ。

 綺麗だから、本物でも偽者でも別に、どちらでも構わなかった。

 ただ、そこにかけられた魔法に。

 自分たちは、魅せられただけだった。



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 トランペットの二人が、駆け上るようにして空に舞い上がって――

 そこから飛び出してきたのは、ホルンが高らかに歌うメロディーだ。

 真剣に音楽をやりたいと言ったあの同い年は、前から上手かったけれど、今はこれまでにはなかった、広々とした響きが含まれているように感じられる。

 『楽しい』はまだ分からないけれど。

 この不思議な気持ちがそうなら、それでいいと。

 そう言ってついてきてくれた彼女は、この風の中で笑っているだろうか。

 吹き抜けるそれに揚力が生まれ、曲はさらに高みへと昇っていく。

 自由なんて言葉とは程遠い、不器用なやつではあるが。

 せめてこの瞬間だけでも、何にも邪魔されず心から演奏をしてほしい。

 そしてもう一度――彼女は、周囲のみなと共に歌い出す。

 この曲のタイトルは、『魔法にかけられて』。

 夢も現実も関係なく、ただその場を懸命に走り抜ける人間だけが、巻き起こせる魔法。

 それをあの論理的な同い年がかけるという奇跡を経て――未来は、また別のものへと変わっていく。



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 場面が変われば、そこは一転して陽気なリズムだ。

 吹きながら楽器をスウィングしたり、くるりと一回転してみたり。

 ベルを揃えて同じ方向や、わざと逆の方に向けたりと――楽しそうにきゃいきゃいと練習してきたことそのままに振る舞う部員たちを、鍵太郎は横目で見守っていた。

 まあじきに、自分も立ち上がって踊らなくてはいけないのだけど。

 隣では一瞬の隙をついてコントラバスがくるりと回り、また何事もなかったかのようにビートを刻み出す。

 そんな他校の部長のように滑らかにはいかないまでも、こっちだって不器用は不器用なりに、趣向を凝らして色々やってみたのだ。

 結果としてあのトロンボーンのアホの子は自由すぎる夢を目指すことになり、誰かの力になりたいと言ったバスクラリネットの同い年は、今もその通り近くにいる部員たちの音を繋いでいる。

 引っ込み思案なクラリネットの後輩は、意外なことに吹きながら華麗なターンを決め――

 その軌跡を追うように、スカートの裾がふわりとひるがえった。

 弧を描くその動きに勇気付けられるように、中低音がメロディーを吹き始める。

 振り返ってみれば余計なことばかりしてたかもしれないけれど、今はその『余計なこと』が自分を支えていた。

 不安がなかったと言えば嘘になる。

 このステージに辿り着くまでは本当に様々なところに気を遣っていて、周りからもそれは無理なんじゃないかと、何度も言われたくらいだ。

 現に先ほども、神経質になりすぎて胃を痛めたくらいで――でも今ここで鳴っている音は、そんなもの吹き飛ばすくらい、とても頼もしい。

 プレッシャーなど感じさせない、生き生きした響きと弾むリズム。

 目を輝かせて吹く彼女たちに囲まれてると、これでよかったのだと改めて思わされる。

 ならここから先は、もっと色鮮やかに。

 派手派手しくやってやろう。

 テーマパークで演奏するつもりでいるのだ、やり過ぎくらいの演出過剰でちょうどいい。

 これまでのフレーズが長く引き伸ばされて、引き伸ばされた景色とは対照的に、思い出だけは次々と通り過ぎていく。

 砂粒のような細かい魔法が積み重なって、作り上げられたその場限りの幻。

 けれど、それでよかったのだ。

 本物だろうが偽者だろうが、夢だろうが現実だろうが。

 ただここを吹き抜ける風を感じてもらえば、それでいい。

 もう一度ホルンが吼えたのを合図に、時間が元に戻る。

 けれどそれは、冷めた感情ではない。

 一見クールな彼女の内側にある、自分で名前も付けられない心の中の気持ち――駆け上がりたいほどに噴き上がる熱。

 最初の場所に戻ってきたからといって、それまでに得たもの全部が無駄になるわけではない。

 むしろそれがあったからこそ、抱えていた物はよりいっそう綺麗な光を放っている。

 深海にいたときから。

 あるいは、自分がやりたいことを伝えているときから。

 ずっとずっと、それを見守ってきたあのホルンの同い年は――あのときと同じ空を見上げ、持っている大切なものを高々と掲げ。

 最後に、ここに来る旅の途中で得たものを、再び大きく吹き上げた。



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「すっごく、楽しかったです!」


 撮影が終わって、二校の片づけがそれぞれ一区切りしそうな段になっても、柳橋葵やなぎはしあおいの興奮はまだ冷めやらぬようだった。

 鍵太郎も、この他校の部長の気持ちはよく分かる。今回の演奏はこれまででひょっとしたら、一番よかったかもしれない。

 これなら、あるいは――と手応えを感じつつ、鍵太郎は葵に向かってうなずく。


「はい、こっちも楽しかったです! これならホワイトデーのお返し、柳橋さんに渡せそうですね」


 オーディションの結果が届くのは、約一カ月後の三月半ば。

 そこで合格の通知が来れば、この合同バンドはまだまだ続く。

 準備するまでは長かったが、本番は始まってしまえばあっという間だ。

 色々あったなあ、と特にトランペットの二人を見て鍵太郎が苦笑していると――葵はなぜかこちらの発言にうっと声を詰まらせ、目を泳がせて言う。


「あ、あの……そのことなんですけど。私、湊さんに言わなくちゃならないことがあるというか……なんというか……」

「え、何ですか?」


 この真面目な相手校の部長が、自分に言いたいこととは一体何だろうか。

 尻すぼみに小さくなっていく声を聞くため、顔を寄せると、彼女は赤かった顔をさらに紅潮させガタガタと震え始める。


「い、いえ!? 何でもありません!? ありがとうございまひた! おつかれさまでひた!!」

「えーっと……? なら、いいんですけど」


 またもやパニック状態に陥ったのか、噛みまくりで頭を下げてくる葵のことを、鍵太郎は首を傾げて見つめた。

 でも、とそのまま続ける。


「何か言いたいことがあったら、言ってくださいね。お互い言いたいことが言えないなんて、そんな合奏はつまらないですから」


 きっとまた彼女には会えるのではないかと、そんな確信めいた予感があるのだ。

 こういうものは結果が出るまで、どう転ぶかは分からないが――

 やるだけのことはやった。

 あとは運を天に任せて、あの風が画面の外にまで届いていることを願おう。

 そう言って笑うと、葵は驚いたように数回まばたきし。

 そして――釣られたようにおかしげに笑う。


「――はい。そうですね、じゃあまた来月、です」

「はい、また来月」


 そんな風にお互いに笑顔で、そしてまた次の機会を待ちわびる。

 楽しい時間はもう一度。

 今度はさらに、準備を重ねて――


「お返し、楽しみにしてますね! 湊さん!」


 向こうで手を振る葵に、今日以上の何を送ろうかと。

 鍵太郎は手を振り返しながら、そう考えてみたりもした。


第17幕 彼女たちには、意思がある〜了

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