第238話 持つべきものは友達
思えば数日前、友人がある本を差し出してきたことが全ての始まりだったのだ。
「おーい
そう言って渡された本を、
気になったところで手を止め、内容を見た。
中身をいくつか確認し、そして鍵太郎はうなずく。
「うん。いいなこれ」
「だろ? よかったら、似たようなのいくつかあるから貸すよ」
「え、マジで?」
などと。
そもそも男二人でそんな約束をしてしまったことが、今回の原因になったのだと思う。
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冬も深くなり、寒さが厳しくなってきた頃。
「……っくしゅっ!」
鍵太郎は、教室でくしゃみをしていた。
何だか頭が少しふらふらして、寒気もある。
最近は受験勉強やら何だかんだ色々あったり、『例の本』を読んだりと、遅くまで起きていたせいで風邪を引いてしまったのか。
そんなことを考えていると、そのくしゃみを聞きつけ、同じ吹奏楽部の
「ちょっとあんた、大丈夫?」
「だいじょう……っしゅ! ごほっ! げふっ!?」
「全っ然大丈夫じゃないじゃない!?」
返事しようとしたら途端に咳が出てきて、かえって光莉を驚かせてしまった。
しかし風邪だったらこれまでも、実は何度かひいているのだ。
慌てる同い年に対して、鍵太郎は言う。
「だい……じょうぶだ。このくらいの風邪、楽器吹いてれば治る……」
実際、軽い風邪なら腹式呼吸をしているおかげか、何とかなっているのである。
それに何より、部長が部活を休むわけにはいかない。
そう言うと、光莉はいつものように怒鳴ってくる。
「治らないわよ!? 何でチューバの人間はいつもそう、人間の限界を超えたようなことを平然と言うわけ!? というか今のあんた、本気でヤバそうなんですけど!? 部活はいいから病院行きなさいよ病院!?」
「いやしかし、俺が行かないのはまずいと……」
「そういう問題じゃないでしょ! ダメ! 今日の部活は休んで、病院に行ってきなさい! 他のみんなに風邪うつしたらどうするの!?」
「ぐっ……」
そう言われると、流石に鍵太郎も引き下がるしかなかった。
確かにこの状態で部活に行って、誰かにうつしてしまうのは嫌だ。
今日は大人しく休んで、明日からまた復帰するとしよう。
そう考えていると――それを見透かしたのかどうなのか、同い年は言う。
「ていうか、明日の自主練も来なくていいわよ。ゆっくり休んで、早く治しなさい」
「ええええええ――ごふっ」
「ホラ。それ以上悪化する前に治すの! 合同バンドの件やら何やらで、最近疲れが溜まってたんでしょ。あとは……この間、寒い中ほっつき歩いてたせいよね」
「それはおまえらだって一緒だろ――がふっ! げふっ、げふっ!?」
「あーもう、言わんこっちゃない。部活のことは心配しなくていいから。あんたは自分の身体を治すことに専念しなさい! これは、ふ――副部長命令よ!?」
「うううう。分かりました……」
自分に代わって光莉が部活を見てくれるなら、そこまで神経質になることもないだろう。
お言葉に甘えて、今日は病院に行くことにしよう。
ただし、一晩寝てよくなったら、明日の練習には顔を出そう。
そう考えて鍵太郎は、そのまま部活を休んだ。
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「加湿器よし、マスクよし。薬も飲んだ、水分補給も十分……っと」
病院に行って、喉を消毒してもらって。
鍵太郎は寝る前に、明日は即座に復帰できるよう、万全の態勢を整えていた。
今日は特に何の問題もなかったようだが、自習練とはいえ二日連続で部活を休みたくない。
そう思う理由は、部長の責任感か、部活を休む罪悪感か。
思い当たる節は様々あるが――なんだろう。
熱のせいか頭がぼんやりして、思考がきちんとまとまらない。
「じゃ、おやすみ……と」
けれども、こんな状態とは早くおさらばしたいのだ。
温かくしてもう寝て、ちゃんと治して明日は部活に行こう。そう思って、横になった瞬間。
ぐらっ――と目眩がして、急速に意識が遠のいていくのが自分でも分かった。
ああ、やっぱり俺、疲れてたのか――と自覚するのと、ほぼ同時。
床に就いてものの数秒で、鍵太郎は眠りに落ちていた。
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「つまんないなー」
翌日、休日の自主練習が行われている音楽室で。
浅沼涼子が楽器を口から離して、思わずといった調子でつぶやいた。
その声に、他の部員たちも一斉に彼女が見る方向に目をやる。
そこはいつも、鍵太郎が座っているはずの場所だが――今は席もなく誰もおらず、ただの空間になっている。
昨日のことからして、風邪で休んでいるのは明白だが。
「つまんない。湊がいないと音が飛ばない」
「チューバがいないと、こんなに音が響かないんだね……びっくりしたよ」
自分の楽器の音が、すとんとそのまま地面に落ちるように消え入ってしまう。
昨日もそうだったが、改めてそれを思い知らされ、
いつもいる楽器がいないと、その重要性がよく分かる。
特に鍵太郎が吹くチューバという低音楽器は、全員の音を支える土台になるものだ。
その土台がないということは、どんなに吹いても音が沈んでいってしまうということになる。そういった事情で部員たちは、いつもとは違う環境に悪戦苦闘していた。
そしてそれ以上に――彼がいない、ということは。
「……まったく、もう。体調管理くらいしっかりしなさいよね」
この環境と同じく、彼女たちの気持ちが沈んでしまうということでもある。
涼子を始め、どことなくみなの元気がないのを見て、光莉は二重の意味でため息をついた。
自分の存在の重要性が、よく分かっていないのだろうか。あいつは。
というかこの前、後輩に「自分を大切にしろ」なんて偉そうに言っておきながら、自身ができてないなんて説教ものじゃないか。
今度こんなことがあったら、承知しない。
ここにあいつがいないなんて、そんなの――と、光莉が考えたところで。
「ちわーす。どうも、お邪魔しまーす」
野球部のキャプテン、
本来なら学校のグラウンドにいるはずの彼が、ここに来るなんて珍しい。
一体何の用だろうか。部員たちが不思議そうに首を傾げる中で、きょろきょろと部屋を見回し、祐太は言う。
「あれ? 湊は? いないの?」
「あいつなら風邪引いて、今日は休みよ」
「ありゃ。そうなのか」
光莉の返事に、他部の部長でもあり鍵太郎の友人でもある彼は、残念そうにそう応えた。
せっかくこないだの本、貸そうと思ったのにな――と、その本が入った袋だろう。
何冊か入っているだろうその大きめの紙袋を見て、祐太は困っているようだ。
「ごめんね、わざわざ来てくれたのに。また休み明けにあいつに渡してあげて」
「あ、いや。まあそれでもいいんだけど……」
と、そう言って彼はふと、そこで何かに気がついたように顔を上げる。
それから光莉や、音楽室にいる他の部員たちの様子を見渡し――祐太は、ニパァ、とひたすら楽しげな笑みを浮かべた。
そして彼は、この場に鍵太郎がいたら絶対止めていたであろう、禁断のセリフを口にする。
「あ、おれこれから湊んち行くけど、誰かついてくる人ー?」
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「……はっ!?」
とそこで鍵太郎は一気に覚醒して、飛び起きた。
そのままバッと時計を見る。時刻は正午前。
ということは、都合十二時間以上も寝ていたことになる。
「うあっちゃー……」
いくら具合が悪かったとはいえ、目覚ましの音にも気づかずに寝入っていたことに、鍵太郎は額を押さえた。
おかげで熱も下がって喉の腫れも引いているが、これから用意をして学校に行っても、あまり意味はない。
部活にいられる時間もほんの僅かだ。ならば光莉の言っていたように、今日は大人しく休んでいるのが賢明だろう。
そう思って、時計を掴んだままがっくりと肩を落とす。
「あー、しょうがねえ。なんか食うか」
副部長にはとりあえず一報を入れて、自分はまず体力を回復させることに努めるしかない。
幸い食欲はそれなりにある。とにかく何か腹に入れねばと、台所に行けば――
そこには母親か姉が用意したのであろう、カップラーメンと菓子パンが、テーブルの上に置いてあった。
「……いくら時間がなかったとしても、病人に対してどうなんだこれは、うちの家は……」
まあ何もしてくれていないより、だいぶマシなのかもしれないが。
家族は全員出かけてしまっているらしい。暖房も切ってある寒い部屋の中で、鍵太郎はカップラーメンに湯を注いだ。
そのまま静かな部屋で、数分待つ。
いつも部活で賑やかな連中や、大きな音に囲まれているため、その静寂はいやに耳についた。
音楽室に比べてここは静か過ぎて、寒すぎて――膝を抱えて、ぽつりとつぶやく。
「……楽器、吹きたいなあ」
ああ、そっか。
昨日の夜、俺が考えてたのはそういうことだったのか――と、今更ながら自覚して、鍵太郎はぼんやりとカップ麺を見た。
部長だからとか、休んじゃいけないとか、そういうことではない。
ただ単純に、自分は楽器を吹きたかっただけなのだ。
理由はたったそれだけで、そのためには早く、風邪を治さなければいけないのに――どうしてか、身体が動かない。
音がないのが辛いならテレビでも点ければいいのに、動く気になれなかった。
汗をかいた服から冷気が染み込んで来て、そういえば着替えをしていなかったことに気づく。けれど暖房をつけようにも服を替えようにも、座り込んだまま身体は動かないのだ。
ここは静かで寒くて、何もなくて。
呼吸すら止まってしまったのかと思うくらい、心が死んでいく空間だった。
まずい。このままじゃ何もできなくなる。
そう思って必死で凍える身体を、なんとか動かそうとした、そのとき――
隣に置いてあった携帯から、キン、と高い音がした。
ぎこちなく首を動かして、画面を見る。
するとそこには友人の、黒羽祐太からのメッセージが表示されていた。
「……祐太か」
条件反射のように手を伸ばして確認すれば、どうも彼は部活帰りに、こちらに寄って『例の本』を貸してくれるらしい。
もうすぐ着く、と書いてあるのを見て、少しだけ動く気力が湧いてくる。
たぶん玄関先で本を渡して終わりだろうが、来客があるというだけで何かしなければと思うものだ。
とりあえず、暖房はつけよう。そう思ったらのろのろとした動きながらもエアコンを点けることができて、鍵太郎はほっとした。
やはり、持つべきものは友人だな――と感じた、次の瞬間。
『ヒゲは剃ったか? 髪は乱れてないか? だらしねえ格好してねえか? もうすぐ着くぞ? 心の準備はいいか? いいよな?』
「……? なんなんだよ、あいつ……」
祐太から意味不明の文章が送られてきて、鍵太郎は眉をひそめた。
大体、昔なじみの男の友人がやってくるのに、身だしなみを整える必要もないだろう。そう考えて首をひねる。
そうだ、彼が来るのなら、読み終わった本は返さなければ――と、立ち上がると。
本当にすぐ近くまで来ていたのだろう。そこでチャイムが鳴った。
「あ、はーい」
返事をして、玄関に向かう。
あの謎の文は何だったのかイマイチ分からないが、まあそこにいるのだ、訊いてみればいいだろう。
そんな風に呑気に考えて、鍵太郎がそのままドアを開けると。
「こんちわー」
そう言う祐太の後ろに。
「わーい! 湊のお家だ!」
「へー。結構綺麗じゃない」
などと、口々に言う吹奏楽部の女子連中が、大勢集まっていて。
「…………」
鍵太郎はそのまま無言で、扉を閉めた。
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