第217話 輝く水面

 合奏曲は『リトル・マーメイド』。

 そう告げられ、湊鍵太郎みなとけんたろうはこの合同バンドでの選曲の経緯を振り返った。

 何の曲をやりたいか、候補を部員たちから募ったわけだが――


「『ノートルダムの鐘』やりたかった……」

「先輩の好みの曲は、暗すぎるんですよう」


 部長である自分が出した案は今後輩が言ったようにあっさり却下されて、この曲に決まったのであった。


 テーマパーク『フォクシー・ランド』でアマチュア団体が生演奏をするイベント、『フォクシー・ミュージック・アンバサダー』。


 その演奏曲の規定には、まず第一に『明るく楽しい曲であること』と書いてある。

 ならば確かにいい曲ではあるが、自分のやりたい曲は取り下げざるを得ないのだ。

 遊園地で演奏する以上はやっぱり弾んだ気分になれるような、そういった曲のほうがいいのだから――そう考えて涙を堪えていると。

 今度は合同バンドの相手高校、薗部そのべ高校の吹奏楽部の部長である柳橋葵やなぎはしあおいが横から言ってくる。


「い、いいですよねノートルダムの鐘! 私もやってみたかったなあ!」

「おっ、柳橋さんもああいう曲好きですか」

「も、もちろんですよっ! 特に最初の低音がね! いい感じですよね!」

「いやあ、さすがコントラバス奏者。低音のいいところを分かっていらっしゃる」


 思わぬところから援護射撃があって、鍵太郎は顔を綻ばせた。

 なんだか彼女が妙にわざとらしい大声で言ってくるのが気にはなるが――それは葵が、初めての両校の合奏で緊張しているからだろう。

 合同バンドといってはみても、まだ結成したばかりの寄せ集め集団に過ぎないのだ。

 そんな団体がオーディションに合格し、有名なテーマパークで演奏できるのか。そう不安になるのも無理もない。

 現に今も彼女はさらに赤面して、「すっ……好き、そうですね、す、好きですね! あは、あはははは!?」などと不審な言動を繰り返している。

 これは、相当気負っているに違いない。

 そう勘違いした鍵太郎は、葵を落ち着かせようと――さらに自分にも言い聞かせようと、これからのことを口に出す。


「大丈夫ですよ、柳橋さん。どんな曲だろうとどんなことがあろうと、このメンバーなら大抵のことは乗り切れますから」

「……湊、さん」

「低音はどんな曲でも、バンド全体の要です。なら初めての合奏ではありますけど、俺たちの力を見せてみようじゃありませんか」


 自分の周りにいる低音楽器の部員たちを見渡して、鍵太郎は葵へとそう言った。

 彼女は先ほど、自分の学校の面子だけでは力が足りないと言っていたが――今はそこにさらにこちらの陣営が加わって、低音パートとして申し分ないものになっているのだ。

 『リトル・マーメイド』は今回の合同バンドで決まった曲の中でも、簡単な方の部類に入る。

 しかしだからこそ両校合わせたときにどんな結果になるか、その試金石となりやすい。

 そういうこともあって相手方の顧問の先生も、この曲を最初に持ってきたのだろう。

 ならばこれから両校で合奏してどうなるかで、その後の展開が決まってくる。

 初合奏だからといって安穏としてはいられない。

 そうはっきりと自覚した鍵太郎は――楽譜と、そして周囲に向かって、神経を張り巡らせ始めた。

 オーディションまでにまだ時間はあるが、二校で一緒に練習できる機会はというと、実は数えるほどしかない。

 だったらその一回一回を、全力で楽しんでやるだけ。

 そんなこちらの気迫を感じ取ったのだろう。

 葵も少し落ち着いた表情になって、スッと楽器を構える。


「――分かりました。なら、私も及ばずながら、力になりたいと思います」

「及ばずながらなんてことはありません、部長さん」


 彼女の実力のほどはわからないが、葵だって部長を任せられるほどの人物だ。

 下手だということはあるまい。運営演奏共に、今回の相棒になる人間である。

 その辺りは期待していいだろう。

 そして、そんな部長二人のやり取りが耳に入ったかどうかは定かではないが――


「はいはい! じゃあやるわよ『リトル・マーメイド』!」


 相手方の顧問の先生が、そう叫んで指揮棒を構えてきて。


 旅は道連れ、一蓮托生。

 期せずして同じ航路に乗ることになった学校同士の旅路が、今始まろうとしていた。



###



 揺らめく海の中で、小さな気泡があがる。

 差し込む光に照らされて、浮かび上がるのは珊瑚の庭、貝の輝き。

 蒼色が広がる幻想的な景色の中を泳ぎ回るのは、可憐で小さな――人魚姫だ。

 柔らかな海草の間を、あるいはもっと小さな仲間たちの間を、彼女は歌って踊るように駆け抜けていく。

 この光景しか知らず、この景色しか見ることはなかった。

 けれどもそんな彼女も、今日からはあの水面の上を見ることを許されたのだ。

 あの輝く光の向こうには、何が待っているのだろう。

 いつもいつも見上げるだけだったあの境界の外には、何が広がっているのだろう――

 そんなことを考えながら、揺らめく光に近づいて。

 そうして、視界いっぱいにその光が広がったそのとき――


 ――ここ!


 勢いよくしぶきを上げるようにして、鍵太郎は一気にその景色を広げにかかった。

 結果的にそれは振り切りすぎて、大きく海面を飛び出すことになってしまったが――今はそのくらいでちょうどいい。

 なぜならそこには、想像していた以上に大きな世界が広がっていたのだから。

 どこまでも続く空と海。

 見渡す限りに広がる、これまでになかった眩しい光景――

 最初はこちらがそこまでやらかしたことに周囲の人間も驚いたようだったが、その景色を見ると楽しそうにおかしそうに、こちらの作り出す波へと乗ってくる。

 そんな穏やかでありながら力強い波の合間から、人魚姫はその『外の世界』を身を乗り出して見つめた。

 初めて目にするそれに、息を呑んで――そして期待に胸を膨らませ、その綺麗な歌声を響かせ始める。

 これからどんなことが待っているのかも知れない。

 ひょっとしたら、とても辛いことが待っているのかもしれない。

 けれども、この景色を見れば――そんな不安なんてどこかへ飛んでいってしまうような、そんな気持ちになれるのだ。

 さっそく襲ってきた不意の大きな波も、水をかぶって驚いたことも、ついおかしくて笑ってしまう。

 陽の光を浴びて輝く波も、空を行く風の流れたちも。

 その全てが目新しくて――再びその光景を目に焼付け、人魚姫はまたここに戻ってこようと、笑って海の中に飛び込んでいった。

 広くて深い、そこに潜っていく中で。

 彼女は静かに静かに――外の世界の夢を見る。



###



「いい人たちだったね」


 と――練習終了後。

 葵と同じ低音パートの部員である、ファゴットの植野沙彩うえのさやはそう口にした。

 友人の言葉に、葵は「うん」とうなずく。

 最初は合同バンドなんてどうなることかと思ったが、蓋を開けてみれば川連第二高校の人たちは、考えていた以上に感じのいい人たちだった。

 今はもう、その相手方の学校のメンバーたちは楽器を片付けて帰ってしまったが――

 その中の一人。

 自分の隣で楽器を吹いていた『彼』のことを思い出し、葵はぽつりとつぶやく。


「……かっこよかったなあ」


 合奏中の顔や、自分を励ますためにかけてくれた言葉の一つ一つを思い出し、彼女はその記憶を噛みしめる。

 何よりも印象的だったのは、彼の出すあの音だ。

 先輩たちがいなくなって、誰も部長を引き受けてくれなくて。

 ずっと不安なままやってきたせいか、久しく忘れていたが――そういえば、合奏ってこんなに楽しいものだった。

 それを思い出させてくれたあの強くて優しい音に、感謝と憧れと、そして何かもっと違う感情と。

 色々なものがごちゃ混ぜになった感情を、葵は抱く。

 あんな風になれたらいいな。

 部長としても、ひとりの奏者としても、そんなことを思うのだが――


「……あ」


 そういえば帰り際、その彼に連絡先を聞かれたことを思い出し、葵は慌てて自分の携帯を見た。

 女子高にいるせいか男の人と連絡先を交換することなどないため、そのときもかなりテンパってしまったのであるが――

 大丈夫だろうか。なんだか変なヤツだと思われてないだろうか。

 その相手方の部長の連絡先をじっと見つめながら、葵は友人へと口を開く。


「ね、ねえ、沙彩? 私、今日向こうの部長さんに連絡先を教えたんだけど……だ、大丈夫だよね?」

「え? うーん、そうだねえ。まあ、大丈夫じゃない? あの部長さん、ちょっと変だけど、優しそうな人だったし。なんかおかしなこと言ってきたりはしないでしょー」

「そ、そうだよね……」


 そうだ、そんな人ではなさそうだった。

 友人の返事にほっと一息ついた葵は、しかしその『おかしなこと』の別バージョンを考え、また一人で顔を赤くする。

 これもまた、自分だけが考えていることなのだろうか。

 そう思った葵は、友人にもう一つ質問をしてみることにした。


「そ、そういえばさ。沙彩はどうなの? あの部長の……湊さん? かっこいいなー、とか、思ったりした?」

「え?」

「ほ、ほら。だって、楽しそうに話してたじゃない」

「あ、そうだね。楽しかったー。いやあ、でもさ。さすがにあんな風にちょっと話したくらいで好きになっちゃうほど、わたしチョロくないよー」

「チョロ……」


 そうか、私はチョロかったのか――と、友人の返答に、葵は密かにショックを受けるのだが。

 しかしそんな葵をよそに、困ったような笑いを浮かべて沙彩は続けてくる。


「わたしにはお兄ちゃんだっているからさー、女子高に通ってるっていっても、そんなに男の人に免疫がないわけじゃないし。まあ、その辺は人それぞれだと思うけど。

 葵ちゃんも気をつけなよー。そういうなんか恋愛系のイザコザがあったら、合同バンドすごく大変なことになっちゃうだろうし。部長としては嫌でしょ。そういうの」

「そ、そうだね、気をつけないとね……」


 既にもう、気をつけてもどうにもならないところにまで来ていると思うのだが。

 友人の真摯な忠告によろめきつつ、葵は自分の席に向かった。

 そして自分の楽器を構え、先ほどの合奏を思い出して――強く腕を振り抜いてみる。

 だがその音は、先ほどの合奏で出せたものからすれば物足りないもので――


「はあ……」


 その自分の力不足は、より鮮明に、相手のことを意識する結果となってしまった。

 ため息をついて、ぼんやりと宙を眺める。

 今日の合奏は楽しかった。

 これまで楽器をやってきた中で、いやひょっとしたらそれ以上に、びっくりしておかしくて面白くて――

 また一緒に隣で弾けたらすごくいいだろうな、と心の中で思ってしまう。


「……あの人、彼女とかいるのかなあ……」


 そして、そんな風に彼女が思い悩む様は。

 まるで輝く水面みなもに恋焦がれる、小さな人魚姫のようでもあった。

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