第20話 はじめてのがっそう
初合奏の日がやってきた。
ばたばたと、吹奏楽部員たちが音楽室の机を寄せ、譜面台を立てていく。
そのいつもの光景が、少し焦りと高揚を伴っているように見えた。
そんな中で、
ヤバイヤバイヤバイ。大丈夫か大丈夫か大丈夫か。
楽器を吹き始めて二週間と経っていない。だから吹けなくてもしょうがないと、頭でわかっているのだが――それでも、失敗したらどうしよう、という恐怖が抜けない。
身体の重心が上がって、普段より足が地に着いていない気がする。肩に力が入って、譜面台を組み立てる手が少し震えている。
まずい。ただでさえ初心者なのに、これじゃ何の役にも立たない。
そう思っていると、鍵太郎と同じく初心者で入部した、クラリネットの
「緊張するね」
「宝木さんは、全然そうは見えないけど……」
いつもにこにことしている咲耶は、今も変わらず笑っている。傍目には緊張しているようになんて見えないが、そうなのだろうか。
咲耶はテキパキと譜面台を組み立てながら、鍵太郎に言う。
「そう? 初めてだもん、緊張してるよ。
けどさ、もうやるしかなくて。初心者の私は、先輩たちについていくしかないんだって思って。それで少しは落ち着いて見えるのかもしれないね」
なにか大きなものに守られれば、少しは考える余裕もできるよ。そう、咲耶は言った。
先輩たちについていくしかない――自分より大きいものについていくしかない。
それは確かにそうだった。鍵太郎にとってその存在は、同じ楽器の先輩の
今までは、自分ひとりでがんばらねばと思っていた。けれど、自分の隣には先輩がいる。
自分よりずっとうまく吹ける先輩が。情けないけれど、今はそれを信じてついていくしかないだろう。そう思うと、少し腹が据わった気がした。
未知の世界で流されるだけだった鍵太郎に、咲耶は一つの基準点を示してくれたのだ。
「ありがとう」
「ううん。お互いがんばろうね、湊くん」
そう言って咲耶は譜面台を持ち、自分の席へと向かっていった。女の子って本当に強いよなあ、とその姿を見て鍵太郎は思う。
自分も定位置に行くと、後ろのトロンボーンパートで同じく初心者である、
「うわー! 緊張するー!」
しゃこしゃこしゃこしゃこ――と彼女は無意味に楽器のスライドを動かしている。
棒状の金属が前に伸びたり縮んだりして、うっかり当たったら結構痛そうだ。「わあああああ」と叫びながらしゃこしゃこしている涼子に、鍵太郎は言う。
「浅沼さん、それ、危ないから……」
「さんはいらないよ! ねえどうしよう湊! あたしすげー緊張してるんだけど!」
言いながら涼子はスライドをがっと前に動かしてくる。「うおっ!?」と叫んで間一髪でそれを避けた。
とにかくこれを落ち着けようと、鍵太郎は先ほど咲耶に言われたことを、そのまま涼子に言う。
「と、とにかく落ち着け!? 先輩たちの音をよく聞いて、それについていけばいいんだよ!? な!?」
涼子はそれを聞いて、初めて侍を見た外国人のように驚いた。
自分の認識の外にあるものを見て、戦慄するしかないといった風に。
大口を開けて目を見開いた彼女は、「な」と一言つぶやく。
「な?」
「なるほどねーーーーー!!」
「ええええええええ!?」
いいの!? そんな簡単でいいの!? と鍵太郎の方が驚いた。
涼子はそんなこちらの肩をばんばんと叩いてくる。元バレー部のせいか、馬鹿みたいに力が強い。
痛みに顔をしかめると、晴れ晴れとした顔で涼子は言ってきた。
「そっか! なるほどね! 先輩たちについていく! そうだよ! すごいね湊、ひょっとして天才なんじゃないの!?」
「そこまで単純なおまえが、むしろ天才じゃないのか!?」
「え、あたしが天才? あっはは、まいったなあ」
「褒めてねえし!? なんですっげえ照れてんの!?」
浅沼涼子は馬鹿だった。アホの子だった。「よーしわかった! あたしがんばる!」と言って、またスライドをしゃこしゃこと動かし始める。なにはともあれ、彼女の緊張は解けたようだ。
「よーっし! 気合い入ってきたぞー! スライド吹っ飛んで当たったらごめんね湊!」
「やめろ! マジで痛そうだからやめろ!」
位置的には本当に当たりかねない。鍵太郎の担当のチューバは、トロンボーンの前の席だ。
強く釘を刺して、今度こそ自分の準備に取り掛かる。涼子との会話で、少し自分の緊張もほぐれた。それについてはまあ、感謝してもいいだろう。でも、スライド当てやがったら許さん。
イスの横に置いてある自分の楽器を持ち上げる。重さは十キロ。金管最大の低音楽器、チューバ。
隣に座っている先輩、春日美里が、いつものように声をかけてくる。
「初めての合奏ですね。がんばりましょう湊くん」
「はい!」
その返事に微笑んで、美里は音出しを始めた。優しいその音についていけるよう、鍵太郎も精一杯、楽器に息を吹き込む。
大丈夫だ。きのう美里と一緒に吹いて、楽譜に合わせて音を出せるようにはなってきている。
あとは同じことをやっている先輩の音をよく聞いて、落ち着いてやればいい。
###
しばらくして、顧問の
指揮棒と、全員の動きが書かれた総譜、スコアを小脇に抱えている。それを指揮台の上に置くと、波が引くように全員の音が消えていった。
準備を整えた生徒たちを正面に控え、本町は言う。
「よっしゃ、これから合奏を始めるぞ。新入生は初めてになるな。緊張するかもしれないが、腕でも回してほぐしとけよ。お、さっそくだな」
後ろで涼子が腕を回したらしい。素直というか正直なそれに、部員たちから笑いが漏れる。なごやかなその雰囲気を引き締めるように、再び本町が口を開いた。
「本番の曲順でいく。演歌メドレー、赤とんぼ、時代劇メドレーをやって、最後にふるさと。最初だからな。各々曲の感じをつかめ。じゃ――始めるぞ」
すっと本町が指揮棒を上げる。それに合わせて、先輩たちがザッと楽器を構えた。あまりに素早い動きに、反応が一瞬遅れる。
立て直す暇もないまま、棒は振り下ろされた。
演歌メドレー。幸い、最初は吹かない。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせているうちに、入るところに来た。
隣で美里が大きく息を吸うのが、見ていなくてもわかる。
テンポはゆっくりだ。ドラムを叩くのは三年の
こちらにも頼れる先輩がいた。楽譜をガン見なので指揮が見られないが、ドラムの音と美里の音を聞きながら、なんとかついていく。
歌の一番が終わり、間奏に入る。音が一気に薄くなり、自分の楽器から出たものすごい力いっぱいの音に、自分で驚いた。
慌てて音量を絞ると、今度は音が消えてしまう。やばいやばい、と復帰しようと焦ると、今度は楽譜を見失った。あれ? と真っ白になった頭で楽譜を見つめる。
ど、どこだ今? と、進んでいく曲の中で焦りばかりが募っていく。すると隣で、美里の音が大きくなった。
いま、ここですよ――と先輩に言われたような気がして、はっとした。少し冷静さを取り戻す。
そうだ、繰り返して戻ってるんだ、と気付いて、たぶんここだというところから吹き始める。不協和音もしないし、動きも先輩と合っている。どうやらここで正解なようだ。
ほっとしたのもつかの間で、メドレーなので次の曲に切り替わる。一気にテンポが速くなり、また置いていかれた。
細かい指使いもあったのだが、そこは全滅した。前奏終わりの打ち込みが終わり、メロディーが始まってしまう。軽快なテンポで進んでいくそれに、追いついていけない。
また美里の音が大きくなったが、指が固まったように動かなくて入れない。そしてまた繰り返し、間奏に入る。細かい動きは全部捨てて、復帰に全力を傾ける。
その甲斐あってか、二番には間に合った。細かいところは相変わらずついていけないが、ベースラインだけならなんとかなっている。
聡司とやった太鼓の達人と一緒だ。曲に乗れ。考えるな、感じるんだと言われた。そう、あれを思い出せ。
幸い早いところが終わって、テンポがまたゆっくりに変わる。よし、と思ったら今度は周りの音が薄くなった。消えないように音を絞ると、口の周りががくがくと震えた。音が揺れる。やばいまた落ちる、とぞっとずる。
トランペットの音が聞こえた。見る余裕はないが、おそらくこの楽しげな音は
自分がこれだけ苦労しているのに、奏恵は堂々と、いつものように吹いていた。
すごい、と心の底から思う。あんなのは真似できない。そう思いつつ、震える口から音を出そうとするも、出ない。
出るのはプス、という息の漏れる音だけだ。曲調が穏やかなので、思い切って音を出すのが怖い。出したら全部壊れてしまうんじゃないかと、そんな恐怖が消えない。
サビに向かって、曲が盛り上がっていく。それに背中を押されるようにして、ようやく音が出るようになってくる。これを逃がすまいと鍵太郎はしがみついた。
後ろからトロンボーンのメロディーが響いてくる。涼子も、その中に入っているのだろうか。もし入っているのなら――あのアホの子を天才だと認めてやってもいい。
負けるか、とその涼子に対抗心が湧く。同じ初心者だ。しかも同じく運動部からの転向だ。負けるわけにはいかない。
ただ単純なその気持ちに突き動かされて、音を出す。
それでよかったのかもしれない。なにもかも考えすぎて、ガチガチに固まっていた鍵太郎は、最後の最後でようやく自分を取り戻した。
一番音量が必要な締めの部分へと、なにも考えずに精魂を傾ける。
腹の底から音を出す。最後の一踏ん張りをする全員を応援するように、ティンパニの打音がした。これで――終わりだ!
最後の伸ばしの音を止めるために、指揮棒が動く。
ふわり――と響きが残って、音楽室が沈黙に包まれた。
本町が指揮棒を下ろす。緊張の余韻から解放されて、部員たちが楽器を下ろした。
あれがダメだった、うまく吹けなかったよ、もう――とおしゃべりが始まる中、本町は手を叩いて、それを中断させる。
「はいはい。おしゃべりは後にして、練習を続けるぞ。それぞれ課題が見つかったと思うが、それでいい。あとはその反省を生かして、本番でじいさんばあさんを泣かせてやればいいんだよ。
さて、とりあえず、アタシが前で聞いて思ったことを先に言っとくか。まず、ノリが演歌じゃねえな。平成生まれのおまえらにゃわからねえかもしれなねえが、昭和には昭和の歌い方があるんだよ」
三十代であろう顧問に、ジェネレーションギャップを突きつけられた。それから、各楽器への指示が飛ぶ。
「豊浦。演歌はそんなに陽気じゃねえ。歌い方を考えろ。トロンボーン、もっとはっきり出せ。メロディーが聞こえん。クラリネット、旋律途切れさすな。話し合って交代でブレス取れ。滝田、早いとこで気分よく走りすぎだ。もう少し回りを見ろ。それからチューバ」
「は、はい!?」
「最後だけよかったぜ」
あとはそれをもっとコントロールしな、と顧問はニヤリと笑った。全部お見通しだったらしい。
決まりが悪くて、抱えている楽器に突っ伏す。音符の半分は吹けなかったのだから、情けない限りだ。
自己嫌悪に陥っていると、隣から美里が声をかけてくる。
「だいじょうぶですよ湊くん。最初にしては上出来です」
「そうなんですか……?」
「みんな通ってきた道ですよ。諦めないでよく最後までついてきてくれました。この調子であと三曲、がんばりましょう」
そうだ、これで終わりではない。これはまだ始まったばかりで、まだまだ先は長いのだ。
「じゃ、今日は感じを掴む為にガンガンいくぞ。次!」と本町が言ったので、鍵太郎は慌てて譜面をめくった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます