第19話 たからもの

「そうそう、その調子です。萎んでしまわないように。大きさは保って。常にそれを意識してください」


 完全に酸欠状態の湊鍵太郎みなとけんたろうに、先輩の春日美里かすがみさとはそう言った。

 死ぬ。酸欠で死ぬ。

 そう思いながら、鍵太郎は息を吐き続けた。脳が悲鳴をあげている。


「はい、いいですよー」


 やっとの思いでゴールにたどり着いて、思い切り新鮮な空気を吸い込む。それでも酸素が足りなくて、視界が暗くちらついた。

 フルマラソンを走りきったランナーが倒れるように、鍵太郎は楽器を床に下ろす。

 吹奏楽の最低音を担当する楽器、チューバ。

 鍵太郎が吹いていたのは、大きければ大きいほど低い音が出るという、管楽器の特性を生かした低音楽器だ。もちろん最低音だから大きさも半端ではない。

 なので消費する酸素の量も半端ではない上に、ベース楽器なので曲中の休みも少ない――という、最初からきついことが前提の楽器だった。

 この楽器を吹くようになってからというもの、鍵太郎は毎日酸欠に悩まされている。


「し、死ぬ……」


 少ない血中酸素を身体に供給しようと、心臓が暴れまわっている。既に両手は痺れていて、力なくぶら下げるしかない。

 ぐったりとイスに座り込んでいる鍵太郎へ、美里は言う。いつもの優しい微笑でもって。


「だいじょうぶですよー。古今東西、楽器を吹いて死んだ人はいませんからー」

「……」


 のほほんと非常にスパルタなことを言う。

 あれ、いつもの心配性の先輩はどこにいったのだろう――と、ちょっと慰められるのを期待していた鍵太郎は残念に思った。吹奏楽をやっている人間は異常に厳しいことをサラっと言うことがあるのだが、美里もその例には漏れないらしい。


「わたしもチューバこれを吹き始めたときは、毎日酸欠でしたから。大丈夫です。そのうち慣れます」


 慣れるって、こんなきつい楽器にですか――と、鍵太郎は思ったが、呼吸が荒いせいで言葉にできない。今時、運動部だってそんな「根性入れれば大丈夫」みたいなことは言わない。

 かつて野球部に所属していた鍵太郎は、なぜか文化部に入ってからその精神に打ちのめされていた。


「でも、湊くんはえらいですよ。ちゃんと真面目に、練習しています。普通ここまでキツいと無意識にどこかで手を抜いてしまうものですが、それもない。立派です」

「早く、追いつきたいん、です……」


 整わない息の隙間に、鍵太郎は言葉を滑り込ませた。これは言わなければならない――なんとなく、そんな気がしたからだ。


「春日先輩も、海道かいどう先輩も、豊浦とようら先輩も、俺が連れてきた、千渡せんども……俺の、ずっと、先にいる。だから、早く、追いつかなきゃ」


 これが彼女達も通ってきた道だというのなら――早く駆け抜けて、追いつきたい。

 いつまでも初心者ではいられない。そのためには多少きつくても、練習に手を抜くわけにはいかない。

 野球部にいたときもそうだった。小兵なら小兵で、身体の大きい者達と対等にやりあうために全力を尽くしてきた。

 もっとも、そのときはそれ以上のことに手を出しすぎて――


「……ぐっ!?」


 まただ。治ったはずの右脚が痛い。

 今まではなぜ痛くなるのかわからなかったが、この部に入ってまた努力をするようになってから、うっすらと理由に察しがついてきた。

 それはたぶん。

 怪我をしたあのときの。


「本当に、がんばりやさんですねえ」


 それは、やんちゃをした子どもに対して言うような口調だった。見れば美里は、苦笑いをして鍵太郎の横に立っている。


「わかりました。湊くんがそう思っているのなら、わたしも安心して、わたしの全てを叩き込めます」


 三年生の美里は、ずっと一人でこの楽器を吹いてきたということだった。

 顧問の本町は、鍵太郎にチューバを任せるときに言ったのだ。「後継者が必要だ」と。

 他人に気を遣って遠慮しがちな美里から、そんな言葉を聞けたことが嬉しかった。鍵太郎はまだぐったりしている身体ながらも、美里を見上げて笑う。


「よろしくお願いします」

「はい。お願いされました」


 あーもう、かわいいですねえ、と言って、美里は鍵太郎の頭をわしゃわしゃ撫でた。


「ほんとうに弟ができたみたいです。素直でがんばりやさんでかわいくて――おねえちゃんは嬉しいですよ!」

「……」


 鍵太郎には姉がいるが、美里のような優しい人間ではない。

 むしろ努力しないと蹴り飛ばしてくるので、それが人格形成に影響を与えているとは思うのだが――

 それにしてもこの歳になって『いいこいいこ』はやめてほしい。自分はそんないい子ではない。やめてほしいと思うけど、まだ身体がいうことをきかないので跳ね除けることができない。いや別に、ちょっと気持ちいいから動く気になれなかったとか、そんなことは決してない。

 なんというか、飴と鞭を巧みに使い分けられているような気もするのだが、美里は天然でこれをやっているのだ。


「さあ、休憩が終わったらまた練習再開です。湊くんが本番でがんばれるように、先輩もがんばりますよ!」


 こんな感じに。そう言われてまたがんばろうと思ってしまうあたり、もはや自分はパブロフの犬だ。



###



「先輩は、なんでチューバをやることになったんですか?」


 二度目の休憩中。鍵太郎は美里にそう訊いてみた。

 男子部員の鍵太郎ですらこのありさまなのに、美里はどうしてこの楽器をやり始め、続けているのか。興味があったのだ。

 美里は「う」とうめいて、悲しそうに言ってくる。


「……女子にしてはデカい、この身長のせいですよ……」

「わかりました、わかりましたから先輩、そんなに落ち込まないで!?」


 なにやらコンプレックスを刺激してしまったらしい。美里は170センチと、女性にしてはかなり長身だ。彼女は負のオーラを引っ込めて、続けてくる。


「わたしがチューバを始めたのは、中学生のときです。ほぼ選択の余地なく顧問の先生にこれをやれと言われました。この身長ですから、今から考えれば大きい楽器をやらされるのは当然の流れでしたね」

「自分でやりたいって言ったわけじゃ、なかったんですね」

「チューバをやりたいと最初から言う初心者は、ちょっといないですね……」


 まず存在を知りませんから、と言って、美里は自分の中学校時代のことを話し始めた。

 そのときから背の高い方だった美里は、言われるがままに楽器を吹き始めた。今の鍵太郎と同じく初心者であったというが、教え方は厳しかった。


「千渡さんがいた宮園中学とまではいきませんが、わたしのところもなかなかの強豪校で。腹式呼吸ができていないと、おなかを殴られたこともありました」

「――なん、ですか……それ」


 それは、体罰ではないのか。昨今ニュースでよく取り上げられている、教師から生徒への暴力。

 それを、美里も受けていたというのか。


「吹けていないと頭を殴られたこともありました。私の隣にいた子は、先生に頭を叩かれて、マウスピースと歯に唇を挟んで血を出していました。本番三日前のことです」

「……」


 運動部ですら、もうそんな指導方法はしていない。

 一昔前ならともかく、吹奏楽の世界はまだ、そんなことをしているというのか。

 そんな仕打ちを受けて、なぜ美里はまだ、楽器を吹き続けているのか。


「それは、先輩……つらくなかったんですか」

「つらかったですよ」


 淡々と、美里は言った。さきほどの宣言どおり、叩き込もうとしているのだろう。彼女の、全てを。


「けどね、それでもわたしは続けてしまった。楽しかったんです、楽器を吹くのが。どんなに怒られても、わたしの音だけは――わたしを裏切らなかったから」


 わたしの音は、わたしそのものでしたから。

 そう、美里は言った。


「先生が怖いときは、怖がっている音しか出ませんでした。できるようになって楽しいときは、楽しい音がしました。音は、とても正直な鏡です。今ここにいるわたしにしか出せない、わたしだけの、特別なものです」

「先輩だけの……」

「湊くん。あなたも同じです」


 楽器を持ったら初心者も経験者も関係ない。

 きのう、クラスメイトの千渡光莉せんどひかりはそう言っていた。

 それぞれの出せる、最高の音を。

 あなただけに出せる音を。


「湊くんの音は、湊くんにしか出せません。わたしにも出せない。それはとても大切なことで――誇るべきことです。わたしはこの音のことを、ひとりで勝手に『たからもの』と呼んでいます」


 時にどこまでも飛べる翼となり。

 時になによりも疎ましい、大嫌いなもの。


「湊くん。わたしはあなたに教えるときに、少しひどい言葉を使ってしまうかもしれません。わたしが卒業してからも、とてもつらいことがあるかもしれません。

 けどね、決してその『たからもの』を投げ捨てないでください。くだらないものだって、ないがしろにしないでください。

 大切にしてください――その『たからもの』は、あなただけの、あなたしか出せない、世界でたった一つのものなんですから」


 おもちゃのように安っぽくて軽くても――

 それはあなたがあなたである、唯一無二の証。

 影のようにつきまとう、あなた自身の姿。

 『たからもの』。

 わたしは、馬鹿なんです。と。

 美里は自嘲した。


「怒鳴られても殴られても捨てられなかった。つらくてつらくて、諦めてしまえば簡単だったのに、結局、手放せないままここに来てしまった。

 でもね、だからまた会えたんです。新しい家族に。わたしと同じ『たからもの』を持った人たちに。

 みんな大好きです。捨てないでよかった。これを持っているおかげで、わたしはみんなに会えたんですから」


 いつものように、春の日差しのように笑って、美里は鍵太郎に言った。



「こうして、湊くんにも会えたんだから」



「――っ!」

「さて、おしゃべりしすぎましたね。休憩は終わりです。練習練習っと」


 なんでもないことのように美里は話を切り上げて、楽器を持ち上げた。


「……すごい、話でしたね」

「そうでもありません。たぶん千渡さんも似たような経験をしている気がします。だから、ここに入るのをためらっていたんじゃないかと――勝手ながら、わたしは昨日、そう邪推してしまいました」

「そうなんですかね……」


 思った以上にきつい話を聞かされて、鍵太郎は少し気分が重くなっていた。ただ、その中でもひとつ、確かに言えることがある。

 それは――



「俺も、先輩に会えて――よかったと思ってます」



 そう言うと、美里は「ありがとうございます」と言って笑った。


「さて、サボってないで練習ですよ湊くん。あなたにはさっき言ったはずですよ。わたしの全てを叩き込みますと」


 そこで心身ともに全部叩き込んでほしいなあ、と一瞬でも思ってしまうあたり、鍵太郎は美里と吹奏楽と、このチューバという楽器に、かなり毒され始めたと言える。

 鍵太郎以外では唯一の男子部員、打楽器の滝田聡司たきたさとしにも近い道を歩み始めてしまったのだが――鍵太郎も美里も、この時点ではそんなことは、露ほども思っていなかった。

 ただ、彼の中に芽生え始めた思いは。

 その気持ちと共にある――彼だけの『たからもの』だった。

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