第38話 テレフォンカード
文緒の父は若くして亡くなった。
今から二十年も前だ。
当時は今と違って、スマホなんてなかった。携帯電話は出始めたばかりで、一般人が持ち運べるような代物ではなかった。
押入れのなかにあった古いダンボールを整理していたら、財布のなかに三枚のテレフォンカードが入っていた。父から貰ったものだ。一人娘の文緒を心配して、いつでも公衆電話を使えるようにと持たせてくれたのだ。
なんだか、とてもなつかしい。
実家から離れて県外に出てきたので、以前はよく公衆電話から父母に連絡したものだ。
そういえば、近所にまだ奇跡的に公衆電話が設置されていたなと文緒は思った。使えるうちに使っておこう。母にも久しく電話していない。ついメールですませてしまう。
文緒は鍵とテレフォンカードを持って、外へ出ていった。古びたアパートを出て、さびれた商店街の裏手へと向かう。細い袋小路にお稲荷さんがあり、その出入り口のとなりに、なぜか電話ボックスがあった。撤去費用をケチって放置されているのだろう。
まだつながるのか多少、不安な気もしたが、とりあえずボックスに入り、テレフォンカードをさしこんでみる。実家の電話番号をプッシュすると、意外にも呼び出し音が響いた。トゥルル、トゥルルと小気味いい音が耳元で聞こえる。
しばらくして電話がつなかった。
てっきり母が出るものと思ったのに、聞こえてきたのは男の声だ。
「もしもし。辻浦ですが」
その声を聞いて、文緒はドキリとした。
「……お、父さん? お父さんなの?」
「おおっ、文緒か。元気にしてるか?」
二十年前に死んだはずの父だ。
あのころと同じ、ちょっとゆったりした口調のあったかい声。
「お父さん!」
あまりのなつかしさに、文緒は思わず涙ぐんだ。すうっと熱いものが頰にこぼれる。
「なんだ。なんだ。文緒、泣いてるのか?」
「だって、お父さん……」
「泣くことないじゃないか。おまえと話せて、お父さん、嬉しいぞ」
「うん。わたしもだよ」
そのあと、しばらく父と話をした。
テレフォンカード一枚ぶんなんて、あっというまだった。とつぜん、プツッと通話が途絶えた。カードの残量がなくなったのだ。ツウツウと不通の音がする。
「お父さん……」
心残りだったが、カードの度数を使いきってしまった。しかたない。まだ家には二枚のカードがある。話そうと思えば、また話せる。
その後、何度か同じ公衆電話を使用した。しかし、小銭を使うとふつうに実家につながるだけで、父が出てくることはなかった。やはり、父から貰ったあのテレフォンカードにだけ、特別な力があるのだ。
残り枚数が少ないので、ほんとに話したいときだけ使おうと思った。
ところが、その矢先、例の電話ボックスが撤去されることを知った。商店街のおばさんに聞いたのだ。
「秋までには撤去するんだって。今どき、みんな、スマホだもんねぇ」
秋というのが正確に何月をさしているのかわからないが、ほんの二、三ヶ月後にはなくなってしまう。
文緒はその夜、あのテレフォンカードを使って電話をかけてみた。
実家のナンバーを押すと、思ったとおり、父の声。
「おお、文緒か。今日はどうした? 元気か」
「うん。お父さんの声が聞きたくて」
「そうか。そうか。困ったことがあれば、なんでも話してくれよ」
「うーん。とくに困ったことはないけど」
むしろ、先日、学生時代の元カレとたまたま再会して、よりを戻した。以前は文緒の元カレが浮気したと思って別れたが、彼から話を聞いて勘違いだったとわかった。いい職にもつけたし、どちらかと言えば、嬉しいことが続いている。
「そうねぇ。職場のAさんがメンヘラっていうか、自分の都合ばっかり押しつけてくる人で、めんどくさいけどね。正直、いなくなってくれたらいいのになぁって、たまに思うことある。それくらいかな」
「職場のAさんだな。わかった。お父さんは文緒の幸せを一番に願ってるからな」
そのあとはカードの度数がなくなるまで世間話をした。
楽しいひとときは、いつも、とつぜん終わってしまう。
でも、さよならを言うのも悲しいから、このほうがいいのだ。きっと。
翌日。会社へ行くと、先輩たちがあわてふためいていた。
「おはようございます。どうかしたんですか?」
「あっ、辻浦さん。大変よ! Aさんが昨日、心不全で急に亡くなったんだって。今、部長が自宅にお悔やみに行ったとこ」
「えっ? Aさんが?」
「そうなの。急よねぇ。まだ三十前なのに」
「…………」
——正直、いなくなってくれたら……。
——文緒の幸せを一番に願って……。
いやいや。まさか、まさか。
そんなバカな。
ただのぐうぜんだ。
あの優しい父が霊になったからって、そんなことをするはずない。
そうは思ったが、それからはなんとなく、テレフォンカードを使うことに気おくれをおぼえた。
彼との交際もひんぱんになって、忙しかったこともある。
父に電話をかけることはもう二度とないだろうと思った。
だが——
ある日、文緒は会社帰りに最寄り駅を出たところで、彼のうしろ姿を見つけた。今日は残業の予定だから来れないと言ってたのに、仕事が早く終わったのだろう。
嬉しくなって、文緒は急いで追いかけた。かなり駆け足で追ったが、男の早歩きには追いつけないまま、ずいぶん長く歩いてしまった。
ようやく声をかければ届きそうなところまで追いついた。
「——さん」
彼の名前を呼ぼうとしたときだ。
彼はまだ独身でマンションに一人で暮らしていると言っていたのに、現住所だと聞かされていた駅前の大きなマンションの前を、彼は素通りした。そしてマンション裏手の住宅街へ向かっていく。
「…………」
なんとなく予感がして、文緒はそっと男のあとをつけた。
数分ののち、男は庭付き一戸建の玄関扉をあけていた。家にはすでに明るく電気がついていて、なかから女の声が出迎える。
「あなた、お帰りなさい。さっきから、あの子、待ってるわよ。あなたにおねだりしたいんですって」
「えっ? またか? この前、新型のゲーム機買ってやったばっかりだろ?」
「今度はそういうんじゃないみたいよ。家族旅行行きたいんですって。来年は高校受験でしょ。旅行なんてできなくなるから」
「うーん」
「あなた。娘が甘えてくれるなんて今のうちだけよ? 彼氏でもできてみなさい」
「そ、そうだな」
玄関口に出てきた女の顔を見て、文緒は愕然とした。それは学生時代、彼が浮気していた相手だ。彼にさけられるようになり自然消滅のような形で別れたが、相手の女と結婚していたのだ。そんなにキレイでもない女。車の販売業の社長令嬢という話だった。
思えば、学生時代、彼が冷たくなったのは、文緒の父が死んだあとだ。父が急性心不全で亡くなって、実家の町工場は倒産した。多額の借金をかかえて、母は病に倒れた。
文緒は大学を中退し、それからはもう、がむしゃらに働いた。他人には言えないような汚い仕事もたくさんした。女が大金を稼ぐためには、そうするしかなかった。
怖い思いもいっぱいした。イヤな客もいた。何度、泣き寝入りしたかわからない。
結婚もあきらめた。仕事でムチャしたせいで子どもも生めない体になった。
この年になって、やっと借金を全額返済し、人並みの暮らしができるようになったのだ。
それだって、上下の音が筒抜けの安アパートでひっそりと一人、お酒を飲むことしか楽しみなんてないような、ささやかな生活だ。
(ゆるせない。わたしを捨てて、金持ち女とちゃっかり結婚して、自分だけ幸せになって、駅近の豪邸に住んで……ゆるせない!)
文緒は急いでアパートに戻った。最後のテレフォンカードをつかみ、電話ボックスへ走った。
トゥルル。トゥルル。トゥルルルル……。
「もしもし。辻浦です」
「お父さん! 悔しいッ! 悔しいよ。あいつ、絶対、ゆるせない」
「どうしたんだ。文緒。落ちついて話してごらん」
父に穏やかな声でなだめられ、文緒は泣きながら事情を説明した。
「あいつら、みんな、いなくなればいいのに! わたしが苦しいときにいなくなったアイツも、人の恋人を横取りした女も、アイツらの娘も、みんな、みんな——!」
父の声が応える。
「文緒。父にとって娘というのは特別な存在なんだ。誰よりも幸せになってほしい。いいか。これからお父さんの言うことをよく聞くんだ。お父さんの言ったとおりにするんだよ」
「うん。お父さん……」
とつぜん亡くなった父を恨んだこともあった。父だって死にたくて死んだわけじゃないのに。
お父さんさえ死ななければ、自分はこんなにミジメな思いをすることもなかったのに。路地裏のゴミためのドブネズミみたいな暗い青春を送ることもなかったのに、と。
でも……。
「文緒。お父さんは世界中で一番、おまえを愛してるよ」
「うん……」
*
数日後。
彼の奥さんと娘が交通事故で死亡した。奥さんが自家用車を運転中に心臓発作を起こしたらしかった。
文緒は嘆き悲しむ彼をなぐさめた。わたしをだましてたのね、結婚してたんじゃないとは、ひとことも言わなかった。ただひたすらに優しく、彼が心地よくなる言葉だけを吐いた。
さらに一年後。
文緒は駅に近い高級住宅街の素敵な家に住んでいた。昨年、例の彼と結婚したのだ。
前の奥さんの実家が建ててくれた
貯金通帳には多額の預金のほか、先日振りこまれたばかりの五千万円も。
文緒が暮らすのには一生困らないだけの額だ。
あのとき、父が電話で「彼のことはゆるしてあげなさい。必死になぐさめて結婚しなさい。そうしたら、一生、幸福になれるから」と言ったときには半信半疑だった。
自分より金持ちの女を選んだ身勝手な男をゆるしてやることなんてできないと思ったけど……。
でも、父の言うとおりだった。
何もかも、父のおかげ。
文緒は喪服をさらりとぬぎすて、白いワンピースに着替えた。白は汚れが目立つから、以前なら絶対に買わなかった。白は贅沢な色だと思う。
一人で暮らすには少し広すぎる家だけど、文緒の年なら新しい相手もすぐに見つかる。容姿は昔からよく褒められた。
田舎の母を呼びよせて、いっしょに暮らそうかとも考える。母もわびしいアパート暮らしだから。
文緒は飾り棚の遺影をカタンと伏せた。とつぜん、心不全で死んだ夫の四十九日もすんだ。これからは我慢して、こんな写真を見る必要もない。
文緒は心のなかで、父に感謝の言葉を述べた。
ありがとう。
やっぱり、大好きだよ。
お父さん。
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