第26話 よこぎる老人



 都会の大学へ入った文緒は、学費を稼ぐためにファミレスでアルバイトをしていた。ホール係だ。


 一週間もたったころ、あることに気づいた。

 毎日、同じ時間帯にファミレスの前の歩道を歩いていく老人がいる。

 一、二分の違いはあるのだろうが、ほぼキッカリ夕方六時。

 それも、いつも服装が変わらない。


 仕事帰りの帰宅路というわけではなさそうだ。なぜなら、老人は働いているような年齢には見えない。八十歳は越している。


 きっと近所の人だろうと、文緒は考えた。散歩の時間が決まっているのだ。散歩用だから、同じ服を着ているのかもしれない。スポーツウェアのような感覚で。


 そんなふうに思い、たいして気にしていなかった。


 それから数か月。

 今の暮らしにもすっかりなれた。

 大学は楽しいし、友達もできた。

 バイトもブラックではなく時給も悪くない。

 自分は恵まれていると、文緒は生活に満足していた。

 あいかわらず、あの老人はよこぎっていくが、それだけのことだ。


 だが、冬になって、文緒は風邪をひいた。熱が三十九度にもなって、とても出かけられない。大学はすでに冬休みだが、アルバイトは休ませてもらうしかない。


 バイト先に電話を入れ、休暇をもらった。

 その日は朝からベッドのなかでウトウトしていた。ときおり目が覚めたときに水を飲んだが、食欲もわかない。


 やがて日が暮れた。

 もうろうとしながら、暗くなった部屋に電気をつけた。


 その瞬間、文緒は悲鳴をあげた。

 あの老人だ。

 老人がよこぎってる。壁から壁へすりぬけていった。


 文緒は失神したのだと思う。

 気づけば夢を見ていた。


 実家の近くの横断歩道。

 文緒が嫌いだった場所だ。

 なぜかはわからないが、なんとなく怖かった。


 その横断歩道を誰かが渡っていく。

 同じ町内の老人だった。

 見かけると、いつも補聴器をつけていた。


 老人は歩行者用信号機が青に変わると、すぐに歩きだした。

 そこへ暴走してきたトラックが左折して、横断歩道につっこんだ。

 その日にかぎって、老人は補聴器をつけていなかった。クラクションにも気づかない……。


 あのとき、急いでかけよれば、文緒は手が届いた。

 でも、それをしなかった。

 以前、一度だけ、老人の家の庭の花を見ているとき、怒鳴られたことがあったから。恨みというほどではなかったけど、そばによりたくないと思うていどには嫌いだった。


 大きな衝撃音がし、老人は宙に飛んでいた。


 文緒はそのあと三日間、うなされた。事故のようすがあまりにもショッキングだったせいで、高熱を出してしまった。治ったときには、事故のことは忘れていた。


(ああ、そうだ。あのときの老人だ……)


 だから、だったのか。

 毎日、毎日、よぎっていったのは。

 忘れてしまった文緒に思いださせるため。

 それとも、ひきとめなかったことを無言で責めるため?


 老人は今日もよぎる。

 来る日も来る日も。

 あのときと同じ時間になると。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る