第162話 新たなる出会い

「え、あの、彼氏って……」


 自分を助けてくれた顔色の悪い男が言った言葉にみずきは戸惑った。成り行き上、一緒の家に住んでいる状態ではあるが、彼氏彼女という関係とはほど遠い。まさかそれを、まったく知らない男から言われたのだ。戸惑うより他にない。


「……違ったかな?」


 みずきの言葉に、顔色の悪い男はそんな風に返してくる。彼が発したその言葉からも、とても具合の悪さが窺える調子であった。


「……はい。一緒に住んでますけど、そういう関係では――」


 ないです、とみずきは言葉を返す。


「そうでしたか。それは失礼いたしました」


 顔色の悪い男は丁寧に頭を下げ、礼をする。顔色の悪さや言葉から滲み出る苦しさとは裏腹に、それは優雅であった。


「あの、えっと……どうして私のことを――」


 助けてくれたんですか? とみずきは顔色の悪い男に問いかけた。


「それは決まっています。今日、私はタツオ殿と会う約束をしておりました。ですが、彼が時間になっても現れず、そのうえ旧市街の広い範囲でおかしなことになっていたので、そちらのほうまで出向いたのです。その際、彼が住んでいる家に彼以外の気配――あなたことですが――が感じられて、おかしな連中に襲われそうになっていたので、私の一存で助けることにしました。迷惑でしたかな?」


「……いえ。そんなことは、ないです」


 ありがとうございます。とみずきは小さく頭を下げた。


 では、セーフハウスを飛び出す前に見えた不思議な文字はこの顔色の悪い男――アースラがやったことなのだろう。あれを見たからこそ、自分はセーフハウスから逃げる決断ができたのだから。彼は間違いなく命の恩人である。


「それはよかった。安心しましたよ。本来であれば、あのときに接触できていればよかったのですが、見ての通り、いまの私はあまり自由の利かない身でしてね。間に合わずにあのような中途半端なことしかできなかったのです」


 アースラは苦しさの滲む顔をしたまま、少しだけ嬉しそうな表情を見せた。


 自由の利かない身。それは意味するのは、彼はなんらかの大病を患っていることなのであろうか? 確かにアースラの顔色は誰がどう見ても健康状態が最悪の人間のものである。いまのこの場で、突然死んでしまっても不思議に思わないほどである。それなにもかかわらず、自分を助けてくれたかと思うと、申し訳ない気持ちになった。


「あの、だいぶ顔色が悪いですけど――大丈夫ですか?」


 恐る恐る、みずきはそう問うた。初対面の人間になにか病気を患っているのかというのを聞くのは失礼であることはわかっているが、ここまで苦しそうに見えるとスルーするのも難しい。


「大丈夫かどうかと聞かれると、大丈夫ではないのですが――私のことは気にしないでください。こうなったのは私が望んだ結果であり、あなたには関係ないことですから」


「…………」


 苦しさを滲ませながらも澱みなく言われた言葉に、みずきはなにも返すことができなくなってしまう。


「だから、私のことよりも、あなたのこと、ひいては彼のことを考えましょう。私はそのためにこちらまでやってきたのです」


 申し訳程度の微力な手助けしかできませんが、なんて言葉をアースラは付け足した。


「あの、いま彼はどうなっているのですか?」


 いま自分たちがいるこの街の状況は明らかにおかしい。なにしろ人の姿がまったくないのだ。なにか、尋常ならざることが起きているとしか思えない。


「率直に言います。いま彼は二つの勢力から狙われています。一つは軍が差し向けた追手。もう一つは――」


 アースラはあたりを見回す。


「教会の人間です」


「軍が彼を追っているのはわかりますけど、どうして教会が?」


 軍が追ってくるのはわかる。自分も彼も、軍の施設から召喚され、そこから逃亡をした身なのだ。


 だが、教会が狙ってくるのはよくわからなかった。少なくとも自分たちは教会の人間となにか大きなトラブルになるようなことを起こしたわけではない。現に少し前までこの街で平和に過ごしていたのだ。まったく狙われる覚えのない相手に狙われるというのはとても恐ろしかった。


「教会が彼を狙っているのは、私にもよくわかりません。ですが、この状況を俯瞰した限りでは、軍と教会が結託しているわけではないようです。かといって敵対しているわけでもなく、完全に別個の理由で彼を狙っているようですね。誘導して潰し合わせるというのは難しいでしょう」


 では、彼はいま二つの勢力から追われているということか。軍と教会。どちらも大きな組織である。たった一人で相手にするのは不可能といっても過言ではないくらいに。


「……ところで、こんなところで話していて大丈夫なんですか?」


 みずきはそう言って、あたりを見回す。まわりには、自分たち以外の姿は見られない。だが、先ほどの男は空中から飛んで現れてきたのだ。そう考えると、あの男が超人的な身体能力を持っているのは明らかである。そんなのに追われたら、逃げることは難しい。というか不可能である。


「ええ。安心してください。いまのところは私の力によって、我々の気配を偽装していますから。しばらくは大丈夫でしょう。ですが――」


 アースラはそう言い、あたりを窺う。


「それもいつまでも続かないでしょう。彼を狙う敵たちからこちらの居所を偽装できるのはあと三十分というところですね。それまでに、私が再度指定した場所に辿り着ければいいのですが」


 三十分。明確に狙われているとわかっていると、その時間は心許ないというより他にない。


「彼は、大丈夫なんですか?」


 みすきはアースラに問いかける。


「ええ。厳しい状況ですが、いまのところは。ですが、この状況がずっと続くと、彼の力を以てしてもどうなるかはわかりません。私は、この状況をなんとかするためにこちらまで出向いてきたのです」


 アースラの言葉を聞き、彼がいまのところ無事だとわかって少しだけ安心できた。しかし、アースラが言ったように、二つの勢力から狙われているという状況は、かなり厳しいのは明らかである。


 どうしよう。自分もなにか彼の力になれるようなことはないだろうか? そう思ったけれど、自分にできることなどなにもない。結局自分は、彼の重荷になることしかできないのだ。そう思うと、みずきの心の中は、嫌な気持ちに支配された。


「安心してください。私が彼と接触できさえすれば、劣勢に立たされている彼にも勝機は見えてきます。あなたがそんな顔をする必要はありません」


「……すみません」


 無力な自分に申し訳なくなって、みずきは小声で言葉を発する。


「謝る必要などありません。あなたはあなたにできることをすればいい。自分を卑下する必要などありません。いまあなたがするべきなのは自分の身を守り、この状況を潜り抜けた彼を出迎えてあげることです。それはきっと、彼も望んでいることでしょう」


「そう、でしょうか?」


「ええ、そうです。それにあなたは完全に無力というわけではない。現に一度、自分を狙っている追手を、自分の力だけで切り抜けたではありませんか」


 そう言われ、少し前に自分がやったことを思い出した。この異世界で、はじめて自分の力だけで成し遂げた、小さな第一歩のことを。


「見ていたのですか?」


「ええ。少し離れていましたが、しっかりと。なにぶん、いまの私は、目と耳だけはいいもので」


 自嘲するような調子で言うアースラ。


 みずきはアースラの言葉を聞き、少しだけ安心できた。


「では、我々は我々ができることをやりましょう。人間というのは、どこまで行っても自分にできることしかできないのですから」


「そう、ですね」


「微力ではありますが、あなたが持つその力の使い方を助言して差し上げましょう。なにぶん時間がないので、付け焼刃になりますが、それでも自分の身を守るくらいはできるはずです。それでは、そろそろここから移動しましょう。身体のほうは大丈夫ですか?」


「はい」


 みずきは力強く言葉を返した。


 みずきとアースラは動き出した。劣勢に襲われているこの戦いを勝利に導くために。

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