第157話 逃避の先に
道を引き返したみずきは、先ほど通り過ぎた三叉路を逆方向に進んでいき、背後にまだ追手の姿がないことを確認したのちに足を止めて、息を整える。
だが、ずっと休んでもいられない。自分はいま得体の知れない何者かに追われている状態なのだ。捕まってしまったら、どうなるかもわからない。とにかく、いまはなにがなんでも逃げなければ。その先にある道が崩れていたのだとしても、自分の境遇を考えれば、逃げざるを得なかった。
もう一度背後を見る。いまのところ、追手らしき姿はない。どういうわけか街に人の姿がないので、追手を判別するのは簡単だったのがある種の救いであったともいえるだろう。それが本当に救いと言えるのかどうかはわからないけれど、多少は助かっていることに変わりはない。
とはいっても、状況がよくなっているわけではないのも事実である。人がまったくないということは、誰かに助けを求めることもできないのだ。関係ない他人の姿がないのなら追手のほうも過激な手段を取ってきてもおかしくはない。なにしろ、あれほど乱暴にセーフハウスの扉を叩いていた連中なのだ。乱暴で恐ろしい手段を取ってきてもおかしくはないだろう。場合によっては殺されてしまうかもしれない。
それを思うと、足が竦んで動けなくなってしまいそうだった。しかし、その恐ろしさに負けて足を止めてしまったらなにもかも終わりだ。捕まってしまったらなにをされるかわからないし、なにより――
また彼に、迷惑をかけてしまう。
この異世界に来てから、なにもかも彼に頼ってばかりだ。できることならこれ以上迷惑をかけたくない。これ以上、彼の負担になるようなことはしたくなかった。
だけど、自分はどこまでも無力だ。そんなこと自分は一番理解している。無力だったからこそ、自分はあの牢獄に捕らえられていたのだ。あそこから出たところで、彼に巣くわれたところで自分がなにか変わったわけではない。人というのはすぐに変われるものではないのだ。
多少体力が回復したみずきは、歩く足を速める。こんなことになるのなら、もっと運動をしておけばよかったと思うが、いまさらこの状況で後悔したところでなにも変わらない。後悔している暇があるのなら、自分を守るために前へと進め。どこまでも逃げ続けろ。それ以外、自分を守る手段なんてないのだから――
しばらく進んだところで、比較的大きな道に出た。左右を確かめ、誰の姿もないことを確認して、右へと曲がる。
一体、どこまで逃げればいいのだろう? ゴールのない道を進まなければならないというのはなかなか堪えるものがある。先が見えないというのはやはり不安だ。どこかに、追手をどうにかできる場所があればいいのだが――
しかし、そんなものは頼れる者が彼しかいない自分にあるはずもなかった。身を隠せる場所もなく、助けを求められる人もない。どうしてこんなことになってしまったのかと思うばかりだ。自分はただの、どこにでもいる大学生でしかなかったはずなのに。
それでも、歩く足は止められなかった。前へ前へと、足だけが自分の制御下から外れているかのように動き続けている。
通りを少し進んだところで、路地へと進む道が見えた。みずきは少し考えたところで、そちらに足を運ぶ。
追われているときに、見通しのいい場所を進むのは危険なように思えたからだ。逃げるのならば、細々と入り組んだ道のほうがいい、ような気がする。土地勘などほぼないので、たいして変わらない気もするが、気休めにはなるだろう。極限状態のいまは、その気休めでも安心できる材料があったほうがいい、ように思える。よくわからないけれど。
両手を伸ばしたら周囲の建物に届きそうな広さしかない路地を進んでいく。まっすぐ進み、左に曲がり、また真っ直ぐ進み、今度は右に折れる。
背後を見る。人の姿はない。まだ大丈夫とわかって少しだけ安心する。だが、この状況がいつまで続くのかは不明だ。この街の土地勘など、まったくないと言っていいレベルである。
相変わらず、手の甲に装着された石は輝きを放っていた。追われている状況で、ゲーミングPCみたく光られても迷惑であるのだが、自分にはどうすることもできなかった。
交差点へとさしかかる。先にあるのは十字路。角から、そっと交差点の先を覗いてみる。
右を見る。人の姿はない。左を見る。問題なし。正面の道へと進む。あたりを警戒しながら足早に交差点を駆け抜けていく。
心臓がどんどんと強く叩かれているかのように鼓動する。それは極限状態で激しい運動を行っているからだろう。一体、いつまで体力が持ってくれるのだろうか? いまのところ気力でなんとか足を動かしている状況だが、それがいつまでも続くとは思えなかった。人間の体力は無尽蔵ではない。ずっと動き回っていれば、いつか力尽きてしまうのは当然の摂理である。たぶんそれは、遠いところにあるものではないだろう。
そんなときだった。
背後を覗き見た瞬間に見えたのは、人の姿。黒い服を着た女性。恐らく、この街にたくさんいる教会の人間だろう。それを確認してすぐ、みずきは走り出した。
三人目の追手。一体、どこから現れたのか? さっきの交差点を確認したときには、誰もいなかったはずなのに――
だが、文句を吐いたところで、新たに現れた追手が消えてくれるわけではない。そんなことをしている暇があったら、さっさと足を動かせ――
後ろから足音が聞こえてくる。軽快に石畳を叩きながら、こちらの向かって走ってきている。動きにくそうな服を着ているのに、その足取りは極めて軽やかだった。足音がどんどんと近づいてくるのは、みずきのことを心から恐怖させた。
みずきは気力だけで走りながら、近場にあった放置されていたらしい木材をぶちまけた。だが、追手の女はぶちまけられた木材を華麗に回避。さらにこちらへと近づいてくる。
走る、走る、走る。息が切れそうになっても、気力と根性だけで足を動かしていく。追手はなおもこちらへと進んでくる。諦めてくれる気配はまるでなかった。
走りながら前を見たそのとき――
二十メートルほど先にあった交差点に、別の人間が通り過ぎていったのが目に入った。それを見た瞬間、みずきはいましがた人が通り抜けていった道の手前にあった角を折れる。
その先にあったのは袋小路。自分が進んできた方向以外、建物で塞がれている。その建物は三階建てほどの高さだ。どうやっても、人並み程度の体力と身体能力しかない自分に乗り越えることはできなさそうだった。
建物を背にして振り向くと、黒い服を着た女性の姿が目に入る。自分よりも数歳年上と思われる女性だった。首から十字架をぶら下げていたので、間違いなくこの街にいる聖職者の一人だろう。距離は十メートルほど。細い道なので、彼女の横を通り抜けることは、超人的な身体能力でもない限り、できそうになかった。
「…………」
彼女は、一切の言葉を発することなく、こちらへ向かってくる。一歩一歩、ゆっくりと。それはまるで、首にかけた手の力をだんだんと強めていくかのよう。恐怖で、喉が干上がりそうだった。
どうしよう。そう思ったけれど、この状況でなにかできることなどなにもなかった。黒い服の女性は着実にこちらへと近づいてくる。その歩みは、時間の流れそのものが遅くなったかのように緩慢だ。追い詰められるこちらをあざ笑うためにそうしているのか、それともただ慎重に近づいてきているだけなのか、よくわからなかった。
黒い服の女性はさらに近づいてくる。距離は五メートルほど。言いようのない圧迫感がどんどんとこちらに迫ってくる。
もう駄目だ。この状況を脱することはできない。みずきの頭にそんな諦めが過ぎったそのとき――
手の甲に装着されていた石が、閃光を放った。いままで放っていた光とは明らかに違う、強いもの。突如、発生した閃光に驚いて、みずきは尻もちをついてしまう。
発せられた光はすぐに消え去った。目の前には、変わることなく黒い服の女性が立っている。だが――
彼女は直立したまま、時間が止まってしまったかのように動かない。みずきは足の震えを抑えながらも立ち上がる。直立不動の状態になった女性に一歩近づく。やはり、動かない。
一体、なにが? みずきの心の中に疑問符が浮かび上がる。いまの光が彼女の動きを止めたのだろうか? その問いに、答えてくれるものは誰もいない。
動かなくなったのなら、いまのうちだ。逃げるしかない。いつまでも彼女が止まってくれる保証はないのだから。
みずきは、直立不動の状態になった黒い服の女性の横を通り抜けていく。すぐ横を通り抜けても、彼女が動き出すことはなかった。
なにがなんだかわからないが、とにかく動こう。逃げる以外、自身を守れる手段なんてないのだから――
みずきのたった一人の戦いは、まだ終わらない。
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