第136話 異常事態

 青年の頭を吹き飛ばすと同時に、その生温かい血と脳漿が竜夫へと降りかかった。竜夫は、顔に降りかかったそれを腕で乱暴にぬぐい取る。


 青年の腕に突き刺した刃を引き、死亡した彼の腕を切断。切断すると支えを失って彼の身体はくずおれ、それと同時に血が噴き出して降りかかる。


「…………」


 頭を吹き飛ばされ、肘先のあたりから腕を切断された青年は動き出すことはなかった。頭を吹き飛ばされているのだから当然だ、とは思うものの、竜の力というのはこちらの予想を遥かに超えてくる。頭を吹き飛ばしてもなお動き出す可能性もゼロは言い切れないだろう。


 竜夫はもう一度、見るも無残な姿になった彼に目をやる。念のためにもう一度刃を突き刺したほうがいいだろうかと思ったが、やめておいた。殺した相手をこれ以上貶める必要はないだろう。殺し殺される相手であったとしても、最低限の礼儀は必要だ。


 さっさと離れよう。そう決断して、歩き出そうとして――


「血をなんとかしないとな」


 これから人と会うのに、血まみれというわけにはいかない。それ以前に、血まみれの姿で街を歩いたらどうなることか。ただでさえ何者かに狙われている状況なのだ。必要以上に目立つわけにはいかない。


 竜夫は倒れている青年に背を向け、集中する。こちらに来てから風呂に入れる機会も多くなったので、これをやるのは久しぶりだ。身体が熱に包まれると同時に、浴びた血の匂いが消え、浄化された。街を歩く分には、これで問題ないだろう。


 肩の傷が痛む。それほど深い傷ではないのに、やけに痛みが強い。彼が持っていたあの赤いナイフに、なにか仕込まれていたのだろうか? 現状、不明ではあるがどうすることもできない。多少痛む程度なら、どうにでもなる。とりあえず、一つ脅威は取り去ったのだ。早く行こう。こちらを監視していた、未だ姿が見えぬ刺客が動き出す前に。


「…………」


 竜夫は再度、青年に死体を見やる。やはり動き出すことはない。それは当然だと思うものの、何故か感じる嫌な予感を拭い去ることができなかった。


 できることなら死体を始末しておきたいところではある。だが、そんなことをやっていられる時間はない。いまは動くべきときだ。余計なことをして、つかめるはずのものをつかめなかったらなにも意味がない。どうせ、この場には他に誰の姿もなかったのだ。このまま放置していても、騒ぎになるまでは多少なりとも猶予はあるだろう。


 竜夫は振り返って、地面を蹴って走り出す。


 余計な時間を食ってしまった。追われ、狙われている身である以上、常に不測の事態がつきまとうのは当然ではあるが、だからといってそれを喜べるような精神など有してはいなかった。というか、不測の事態を喜ぶ人間なんていないだろう。無論、異世界においても。


 竜夫は、彼と戦った場所からしばらく離れたところで、足を緩めた。


 いまのところ、誰かが追ってくる気配はない。


 そして、人の姿は相変わらず絶えたままだ。あの青年は、かつて襲ってきたあの三人と同じく、なんらかの手段を用いて、かなりの範囲から自分以外の人間を遠ざけているのだろう。できることなら、今後のためにそれがなんなのか解明しておきたいところだが、残念ながらそんな時間の猶予などない。


 竜夫はあたりを警戒する。


 自分に向けられる、不審な視線はいまのところ感じられない。泳がされているのか、それとも捕捉できていないだけなのかは不明だ。しかし、どちらにしても動かなくてはならないだろう。動かなければ、なにも手に入れられない。


 そのとき――


 がくんと視界が歪んだ。足が止まり、身体がよろめいた。


「な……んだ?」


 襲いくるのは、とても気のせいだとは思えないほど強烈な倦怠感。それは、ただ歩くのすらつらいと思うほどだった。


「一体、なにが――」


 身体が重い。自分の身体のまわりに鉛でも取り付けられたかのようだ。視界が、天地が翻ったかのようにぐらぐらと揺れていた。


 これは、戦いの疲れによるものではないのは明らかだった。先ほど戦いの末に自分が殺したあの青年になにかされたのだ。それは、間違いないのだが――


 賢明に記憶を探ってみても、その覚えはどこにもなかった。戦いの最中、彼がなにか不審な行動をしていたことはまったくない――はずだ。普通に戦い、普通に決着がついたはずである。こちらにこのような現象が引き起こされる覚えはなに一つとしてないはずなのに――


 どこまでも強烈な倦怠感は一向に弱まる気配はない。それは津波のように極めて暴力的に襲い来る。歩くどころか、立っているのもつらかった。


 しかし、足を止めるわけにはいかなかった。ここで足を止めてしまっては、もとの世界に戻る手がかりを得られなくなるかもしれないのだ。ここで足を止めてしまうのは、自分のためにも、自分を信じて待っていてくれているみずきのためにもならない。どれだけつらかったとしても、動かなければなにも手に入れられないのだ。


「…………」


 竜夫は歯を食いしばり、襲い来る倦怠感に吹き飛ばそうとする。


 身体は、自分のものとは思えないほど重い。心を震わせ、それに抗おうとしても襲い来る身体のつらさは治まることはない。


 それでも、足を必死に動かす。止まるわけにはいかないと、心を必死に震わせる。なにも知らぬ異世界で生き抜き、もとの世界に戻る手段を見つけるために。


 なにより、自分を信じて待っていてくれているみずきのために、ここで倒れるわけにはいかないのだ。なにがあったとしても、目的を達成し、無事に生きて帰らなければ――


 強く大地を踏みしめる。この街の古い石畳みは、こちらの足が踏みしめることを拒否しているように思える。とてつもなく硬くて歩きにくい。いままでそんなこと一度も思ったことなかったのに。


「…………」


 息が乱れる。


 ここで腰を下ろしてしまいたかったけれど、そんなことをしたら二度と立ち上がれないように思えてならなかった。


 竜夫は、あたりを見る。


 相変わらず人の姿は見えない。彼は、かなりの範囲から自分以外の人を追い払ったらしかった。


 よろめきながら、竜夫は進んでいく。アースラが指定してきた番地は、まだ距離がある。普通であればたいした距離ではないが、いまの状態ではどこまでも遠くにあるように思えてならなかった。


「くそ……本当に、現実ってやつはままならないな」


 吐き捨てるように呟く。自分以外の人の姿が絶えたこの場所では、小さな呟きすらも大きく聞こえた。


 こちらを遠くから監視する視線も未だ感じられない。あの視線がいつどこから現れるかわからない以上、こちらがどれだけつらくとも動くべきときなのは間違いなかった。それに捕捉されてしまったら、それをどうにかして排除しない限り、アースラと接触するのは危険である。アースラもこの国を支配する竜どもに反抗している存在なのだ。仮にあの視線が軍のものでなかったとしても、それに捕捉された状態で接触するべきではないだろう。味方などろくにいないこの身には、警戒しすぎているくらいがちょうどいい。


 竜夫は、苦しさに耐えながら、覚束ない足取りで進んでいく。


 目的地は、まだ遠い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る