第117話 混沌の中で

 そこはなにもかもが曖昧な空間だった。


 自分以外にはっきりとした形を持つものはなく、絶えず形を変形させては消えていく。どこまでも現実感が欠けた空間であった。


 竜夫は身体を動かそうとする。


 しかし、身体はまったく動かない。無理やり押さえつけられているようにも、麻酔のようなものも身体の動きを止められているようにも思えた。理由は不明だ。とにかく、身体を動かすことはできなかった。それ以上でも、それ以下でもない。


 あたりを覆う混沌が竜夫の身体に押し寄せてくる。この場にあるすべてを曖昧にする善も悪も入り混じったなにかの渦。それは、こちらの身体を侵食するかのように、音も痛みもなく蝕んでいく。


 混沌に蝕まれつつある竜夫の身体は、どこかへと落ちていく。どこまで行ってもあたりを覆う混沌は消えることはない。落ちれば落ちるほど、その混沌は強くなり、曖昧さが増していく、ように思えた。


 竜夫の身体は、なおも動かない。混沌に侵食されていく自分の身体を、ただ認識することしかできなかった。混沌の侵食によって徐々に失われていく自身の身体を認識するのは、とても恐ろしい。逃げたいと思っても、自分の身体はまったく動いてくれなかった。この侵食に身を任せることしかできない。


 竜夫の身体は、さらに落ちていく。


 あたりを支配する混沌は、落ちれば落ちるほど、その勢いが増していく。動かない身体にかかる得体の知れない圧力がはっきりと感じられた。それはまるで、動かない身体を押し潰して飲み込もうとしているかのよう。目線すらも動かせないので、いま自分の身体がどうなっているのかすらも確かめることもできない。それどころか、身体が残っているのかすら不明だ。混沌に侵食をされたこの身体は、自身と外界との境界すらも曖昧になっている。すべてが自分のように思えるし、すべてが自分とは相容れない異物のようにも思える。どこまでも混沌としていて、判然としない。


 落下は止まることはない。延々と、ただひたすらに落ちていく。それはまるで、ブラックホールの中で延々と落ち続ける物質のようだ。どこまでも無限に感覚が引き延ばされていく感覚。もしかしたら、自分の身体はスパゲティのように引き延ばされているのかもしれない。身体がスパゲティと化しているのなら、動かせないのも当然だ。そんなことを延々と落ち続けながら、他人事のように思った。


 この混沌はどこまで続いているのだろう? 随分と深くまで落ちてきたというのに、落下は止まることはない。


 いや、そもそも落ちるという感覚が果たして正しいものなのかも不明だ。ここはすべてが曖昧だ。上も下も左右もないような混沌にすべてが支配されている。そんな中で、落ちていく感覚が正しく感じられるとも思えなかった。だが、そんなことはどうでもいい。落ちていようが昇っていようが、この混沌から逃れることはできないのだ。


「――――」


 混沌を落ちていく中、声が聞こえてきた。甘く囁くような声だったが、なんと言っているのかはわからない。なんと言っているのかもわからないのに、頭の中へと突き刺さるような声だった。


「――――」


 声が聞こえる。その声は先ほどと変わることなく、甘く囁くような声で竜夫の脳髄へと突き刺さる。もはや身体などあるかどうかすらもわからないのに、どうしてそんな風に感じられるのだろう? よくわからなかったが、どうやらそういうことらしい。この混沌の中では、どんなことだって起こり得る。そうでなければ、延々と落ち続けるなんてこともないだろう。


「――――」


 声が聞こえる。その声は相変わらずなんと言っているのか認識できない。それにもかかわらず、この声の主が自分に語りかけていることは不思議と理解できた。この声は、一体なにを目的としているのだろう。よくわからないが、この声に耳を傾けているのは危険であると思えた。


「――――」


 声はなおも聞こえてくる。必死になにかを訴えているかのようだ。けれど、言葉を聞き取ることはできない。


 額のあたりになにか異物感があった。なにかを差しこまれているような感覚。それだけへは、とてつもなく不快に感じられた。得体の知れないものに自分の身体を奪われているようだ。


「――――」


 声は止まることはない。なおもこちらに語りかけてくる。声が聞こえると同時に、額にある異物感が強くなる。それをなんとかのけようとするも、身体はまったく動いてくれない。額にある異物感は、さらに強くなる。それは深く深く、竜夫の脳髄のほうへと押し込まれていく。


「――――」


 声が聞こえる。やはり、なんと言っているのかわからない。声が聞こえるたびに、異物感が強くなっていくのも同じだ。異物は、音もなくごりごりと奥へと入り込んでいく、ように思えた。


 そこで、竜夫はあることに気づく。


 いま自分の身に起こっているこの現象を、どこかで見たことがあるように思えたのだ。自分が過去に体験したわけではない。自分と同じような状況の陥っている誰かを、見たことがあるような―

「――――」


 それでも、声は止まることはない。頭に感じられる異物感もさらに強くなる。その異物感は強くなりすぎて、自分の頭そのものが異物に支配されているかのようだった。


 やはり、この感覚は知っている、ような気がした。自分ではない誰かがこんな目に遭っていたような――


 だけど、答えには至らない。混沌と頭の異物感と得体の知れない声に自身の思考力を奪われているせいかもしれなかった。


「――――」


 声が聞こえる。何度聞いても、その声がなんと言っているのかわからない。だが、この声がなんと言っているかわかってしまったらそこでなにもかも終わってしまうように思えた。


 異物感もさらに強くなっていく。音を立てることなくゴリゴリと頭の中へと入り込んでくる。なんとかしてそれを取り除きたいと思うものの、依然として身体は動いてくれない。されるがままに蹂躙されている。一体、いつまでこれが続くのだろう? 落ち続ける自分の身体と同じように、これも永遠に続くのだろうか?


「――――」


 声が聞こえる。まったく知らないその声は、未だになんと言っているのか、なんと言いたいのか不明だ。それにもかかわらず、何故かそれは自分に語りかけているものと確信できた。


 異物感も変わることはない。声が聞こえるたびに、それは強くなっていく。


 やはり、いま自分を襲っているこれは知っているように思えてならなかった。あと少しで手が届きそうなのに、なかなか届いてくれない。思い出せ。それさえわかれば――


「――――」


 声は止まらない。それはこちらの思考を妨害しているかのように思えた。こちらがわかりかけている『なにか』を知られたら困るのだろうか? よくわからない。


 そこまで考えたところで――


 やっと気づく。


 自分を襲っているこれがなんなのか。


 どうしてそれを知っているのか。


 やっとのことで思い至る。


 そう。あれは忘れるまでもない。それは――


 竜夫は動かないはずの身体を動かそうとする。


 これが、いま自分が思っている通りなら――


 竜夫はあたりに満ちる混沌に逆らいながら――


 身体を動かし、頭にある異物感に触れ――


 それを、そのまま引き抜いた。

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