第83話 澱み
ついこの間まで軍の施設があったという町の空気は言い難いほど澱んでいる。町が汚れているわけでも、異臭が漂っているわけでもないのに、どうしてそのように感じるのだろう? よくわからないが、とにかくこの小さな町には嫌なものに支配されている。これは、一体なんなのか?
「……嫌な感じだな」
ケルビンがそう漏らすと、ブラドーが『お前もそう感じるか』と関心をしたような声を響かせて返してくる。
「わかるのか?」
『わかるさ。何度も言ってるように、俺は忌々しい同族どもの匂いには敏感なんだ。この街は、竜どもの残滓が入り交じり、浄化されることなく滞留している。控えめにいって最悪の環境だな』
ブラドーはここにいない竜たちすべてを呪うかのような声を響かせる。
「ここに、ヒムロタツオはいたのか?」
『ああ。間違いない。奴の気配は軍の施設のほうに強く残っているな。それにしてもよくやったもんだ。人の身で竜に変じるとはな。喜べよ。あの異邦人、なかなかに狂った奴のようだぞ』
ブラドーは、もし姿があったのなら心底邪悪な笑みを浮かべていそうな声をケルビンの頭の中に響かせた。
「……そうなのか?」
ケルビンには、ブラドーがどのような基準で「狂っている」と評しているのかよくわからなかった。
『竜というのは人間よりも遥かに強大な存在だ。奴は自分よりも遥かに強大なその力をすべて解放したのだ。そんなことをすれば、あらゆる面で生物としての強度が劣っている人間は耐えられない。仮に、あの婆がすべての力をヒムロタツオとやらに譲渡したといっても、その生物としてのそれだけはどうやったところで否定できん。要は塗り潰されるのだ。少量の色の薄い色の絵の具に大量の色の濃い絵の具を混ぜるのと同じようにな。ヒムロタツオという異邦人はその不可能をやってのけたのだ。これを狂っていると言わずしてなんと言う?』
「…………」
そう問われたものの、ケルビンはどう返すべきはよくわからず答えることができなかった。
しかし、大量の色の濃い絵の具をぶち込まれたにもかかわらず、もとの色を保持しているというのが異常であることは充分に理解できた。
「それなら、すでにヒムロタツオがもとの人間性、精神性を消失しているという可能性は?」
『現状ではなんとも言えん。が、もとの人間性、精神性を完全に失っているということはないだろう。そうでなければ、このように積極的に動いたりはしないだろうからな。ヒムロタツオに力を譲渡したあの婆は、いまはもうただ朽ちていくだけの世を捨てた存在だ。ヒムロタツオ自身の人間性、精神性が完全な消滅をしていたのなら、あの異邦人は竜の力だけに満たされた意思なき亡者と化していただろう』
「じゃあ、奴は一切変わっていないと?」
『これも現状ではなんとも言えんが、一切変わっていないということはないだろう。なにしろあの婆は朽ちかけといっても竜である以上、人間よりも圧倒的に強大だ。その力で満たされて、もともとの人間性、精神性を保持できたとしても、なんらかの形で変異が起こっているはずだ。異世界の住人たる奴が、もともと竜並みに強大な存在だったという可能性もあるがね』
「……じゃあブラドーの力に満たされた俺も、奴と同じくなんらかの変質が起こっているのか?」
自分も、竜の力に満たされてもなお、自身の人間性、精神性を保っている。であれば、なにかが起こっているのは必然と言えるだろう。
『さあな。俺にはお前のことなどわからんし、知ったことではない。自分がどうなっているかなど、自分で考えろ』
ブラドーはぶっきらぼうな口調で突き放すような声を響かせた。
自分で考えろ。お前のことなど知ったことではない。ブラドーらしい言葉だ、とケルビンは他人ごとのように思った。
いまのところ、自覚できるような変質はないが――もしかしたら、自分では認識できない変異が起こっているのかもしれない。だが、さして気にする必要もないだろう。自身の意思はこうして存在しているのだから。無自覚なものをわざわざ自覚しようとしたところで、なにか変わるわけでもない。
『で、どうするのだ? 奴が竜と化した施設にでも行ってみるか?』
ブラドーは問いかけてくる。
「いや、いくら俺が軍の人間だからといって、さすがに爆破されたばかりの施設には入れないだろう。近くまで行くか、どこか高いところに登って中を覗いでみるかだな。どうする?」
爆破された軍の施設は、歩いてもそれほどかからない場所にある。近場に行くくらいであれば、特に問題ではないだろう。
『……近くに行くのはごめんだな。この町を満たす澱みの中心に行くなど我慢ならん。それに、上からの俯瞰なら中の状態も視認できるし、そちらのほうが効率的だな』
「じゃあそうしよう。どこか近くに高い建物は――」
ケルビンはあたりを見回す。やや郊外にあるこの町には帝都にあるような高い建物は見当たらなかった。
『それとも、お前もヒムロタツオとやらと同じく、俺の力を開放して竜と化すか? 俺は飛べる種だからな。そうすれば好きなだけ見ることができるぞ』
くくく、という笑い声を響かせるブラドー。それは、こちらを揶揄するようにも聞こえる笑い声だった。
「……飛べるのは便利そうだが、やめておくよ。それをやると、俺の人格が塗り潰されかねないんだろ? わざわざ、そんな危険のある酔狂な真似はしたくないね。俺はまだ、消えるわけにはいかない」
ケルビンがそう答えると、ブラドーは『懸命だな』と少しだけ残念そうにも聞こえる声を響かせた。
『お前がそうするというのなら、俺はその意見を尊重しよう。与えられたものとはいえ、お前に守るものがあるのだからな』
「…………」
ブラドーの不審な言葉にケルビンは首を傾げた。与えられたというのは、一体どういうことだ? いつ口調で言い放ったその言葉がやけに引っかかる。何故なのか、よくわからなかった。
『まあ気にするな。俺の言葉をいちいち気にかけている場合ではないだろう。さっさと、ヒムロタツオの行方を探したほうがいいのではないか?』
「……まあ、そうだな」
ケルビンはブラドーの問いにそう返答する。確かに、いまはヒムロタツオの行方を探すのが先決だろう。なにかを考えるのは、やるべきことを済ませてからでいい。
「で、竜に変身したヒムロタツオはどっちに飛んでいったんだ?」
歩きながら、ケルビンはそう問いかける。
『どうやら、西のほうのようだ。どこまで飛んでいったのかは、もっと近づかんとわからんな』
西のほうになにかあっただろうか? なにか目的があってそちらに飛んだのか、ただ逃げるために飛んだのがそちらのほうだったのか、現状では不明だ。
『しかしまあ、よくやったもんだ。ここまで来るとある種の喜劇だな』
「さっきから一体なんの話だ?」
ケルビンはそう問いかけたものの、ブラドーは静かに笑いながら『さあな』と言うだけだった。
しばらく歩いていると、古びた時計塔が目に入った。この町の建物の中では、これより高い建物はなさそうだった。
「ここでいいかな?」
『それほど高くないが、郊外にある町ならこの程度だろう。それに、お前の目は常人よりも遥かに優れているからな。たいして高くなくても問題あるまい』
ブラドーの答えを聞いたのち、ケルビンはあたりを見回し、近くに人の姿がないことを確認して――
竜の力を得た自身の脚力を存分に利用して飛び上がり、古びた時計塔の上へと降り立った。
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