第78話 一縷の望みを求めて

 セーフハウスに辿り着くと、荷物を適当な場所においてすぐみずきをベッドへと寝かせた。服を変えたほうがいいのでは? と思ったものの、高熱を出しているとはいっても女性の服を脱がせていいものかよくわからなかったので、結局そのまま寝かすことにした。氷はなかったので、冷水で濡らせたタオルを額に乗せておく。気休め程度かもしれないが、なにもしないよりはマシだろう。


 竜夫は、苦しそうにベッドで臥せているみずきを見る。顔が赤くなり、呼吸も苦しそうだった。なんとかしなければ、とは思うが、自分には医学知識などほとんどない。彼女が一体どんな病気なのかもわからない状況なのだ。素人判断で下手なことはしないほうがいい。


 そう自分に言い聞かせても、なにもできないのはもどかしかった。なにか、自分にできることは――


 考えてみたけれど、やっぱりできることなどなにもなかった。それはあまりにもどかしく、そして情けない。竜の力という、超常に力を手に入れたというのに、苦しんでいる彼女を助けることもできないのか? 目の前に広がる光景はそれを否が応でも思い知らしてくる。


「……早く、電話をしよう」


 竜夫はもどかしさと悔しさをかみ殺したのちに立ち上がり、電話が設置されている場所へ向かいながら考える。


 やはり、いま現在唯一頼れる医療従事者であるハル医師に駄目もとで頼んでみるしかない。


 そうは思うものの、ハル医師がいるのはここから電車で三時間以上離れたところにある帝都だ。病気で苦しむみずきを三時間も待たせていいものだろうか? その三時間が、明暗を分けるということは充分あり得るだろう。あれだけの高熱を出しているのなら、できるだけ早く医者にかかったほうがいい。しかし、社会的な身分を持たない自分やみずきがかかれる医者などこの街にだってそうそうありはしない。仮にそれがあったとしても、まともかどうかもわからないのだ。


 セーフハウスはそれほど広くないので、すぐに電話がある場所に辿り着いた。小さい頃祖父母の家で見た電話に似た形のもの。受話器を手に取り、首と肩の間に挟んで、財布からハル医師の名刺を取り出す。そこに書かれている番号を入力しようとして、手が止まった。再び、どうすればいいのかを考える。


 何度考えても、結論は同じだ。三時間以上待つことになっても、いま自分が頼れるのはハル医師しかいない。どうやってもその結論に行き着く。


「…………」


 なにをやっている? そう思った。もしかしたら刻一刻を争う状況かもしれないのに、どうして躊躇しているのか? 頼れるものには頼るしかない。この異世界で生き抜くために、そう結論づけたのではなかったか?


 竜夫は一度歯を食いしばり、勝手のわからない古い型の電話に名刺に書かれている番号を入力する。入力をし終えると、呼び出し音が受話器の中から流れていく。それから電話交換手の音声が聞こえて、しばらく待つ。すると――


『はい、もしもし?』


 電話の向こうから声が聞こえてくる。


「突然お電話すみません。以前そちらでお世話になった氷室です。ハル先生はおられますか?」


 失礼のないように、焦らないように竜夫は言葉を紡ぐ。


『ああ。きみか。どうかしたのかい?』


 電話から聞こえてくるハル医師の声はかなり違うように聞こえたけれど、その喋り方は確かにハル医師のものだった。


「いきなりこんなことを言うのは失礼だとわかっているのですが、助けてください。一緒にいる知り合いが倒れてしまって、いま頼れるのは先生だけなんです」


 溢れそうになる言葉の洪水をなんとか押しとどめながら、しっかりと用件を伝えるために、焦らないように言う。


『……私を頼るってことは、いま一緒にいる知り合いというのも、きみと同じくワケありってことでいいのかい?』


 こちらが必死になっているのが伝わったのか、ハル医師の声の空気がすぐさま変わった。冷静でありながら真剣な声で告げる。


「はい」


『口頭でいいから、その知り合いがどういう状況なのか教えてくれ。わかる範囲で構わないから』


 冷静なハル医師の声を聞き、竜夫はみずきの症状を告げる。


『年齢と性別は?』


「僕と同じくらいの歳の女性です」


『下痢や嘔吐はしているかい?』


「いえ。いまのところはまだ」


『身体のどこかに湿疹などは出てるかい?』


「見える限りではなかったと思います。服を脱がせてみたわけではありませんが」


『呼吸が苦しそうだと言っていたけど、喘鳴などはしているかい?』


「苦しそうにはしていますが、していません」


『……ふむ。わかった。ありがとう。しかし、電話じゃその娘がどういう状況なのかわかりかねるな。あ、別にきみの伝え方が悪かったってわけじゃないよ』


 ハル医師はそう言ったものの、竜夫はどんな言葉を返せばいいのかよくわからず、返答することができなかった。


『ところで、いまきみはどこにいるんだい? できることなら、こちらに連れてきてほしいのだけど――』


「いまは、ローゲリウスにいます」


 竜夫は少し躊躇したのちに、告げる。その言葉を聞いて、ハル医師は――


『結構離れているね。そうなると、病人を連れて、こちらに来てもらうってのは難しい――という以前に、病人を連れて何時間も移動させるのは医者の端くれとしちゃ推奨できないね。他の人にうつす可能性もある、なによりも患者の負担だ』


 ハル医師はそこで一度言葉を切り、すこしだけ間を開けて――


『仕方ない。私がそちらに行くとしようか』


「え」


 予想外の言葉に、竜夫は素っとん狂な声を上げた。


「い、いいんですか?」


『いいよ。動けない患者のところに出向いて診察するのだって医者の仕事だ。それにちょうど暇をしていたところだったしね。出向くとなると、来てもらうよりもできることは少なくなるけれど、仕方ない。まずは、その娘の容態を見ないと、始まらない』


「来てもらうのは嬉しいですけど、先生に頼むようなお金は――」


 彼女は闇医者だ。金さえ払えばどんな患者でも救う代わりに、膨大な金を請求する。それは、これから生活していくにあたって必要になる資金をほとんど失うことに他ならない。だが――


『普通ならそれなりに金額を請求するところだけど、きみであれば話は違ってくる。以前私は、きみの身体のことを調べてみたい。協力してくれるのなら、それなりの金を払う。そう言ったのを覚えているかい?』


「……はい」


『では、今回の診察は、その協力してくれたときに支払う報酬から引くという形にしよう。それでも構わないかな?』


「ほ、本当ですか?」


 予想だにしなかったハル医師の言葉に、竜夫の声は裏返ってしまう。


『本当だよ。きみみたいな若者を騙すような趣味は私にはないからね。きみと同じくワケありなら、その娘もなにか興味深いものがあるかもしれない。それに、私が闇医者なんてやってるのは、きみのような医療の受け皿からこぼれ落ちてしまう人を助けるためでもあるからね』


「ありがとう……ございます」


 竜夫は、泣きそうな声になりながら感謝の言葉を告げる。


『別にいいさ。私してもなかなか興味深そうな事例だからね。気にしなくていい。ところでローゲリウスといってもかなり広い。どのあたりにいるんだい?』


「ええと――」


 竜夫は自分の記憶を掘り起こして、このセーフハウスの番地を告げる。


『わかった。じゃあ、準備ができ次第、すぐ向かうよ。つらいかもしれないが、それまで待っててくれ』


「……わかりました」


 竜夫は重々しい声で答える。


「先生が来るまで、僕がなにかできることってありますか?」


『そうだね。高熱を出しているのなら、冷水で濡らした手ぬぐいか、氷があるのなら氷枕を使って、少しでも高熱に寄る苦しさを和らげてやるといい。できることはそれくらいだ』


「ありがとう、ございます」


 竜夫は感謝の言葉を述べる。


「……それじゃあね」


 ハル医師は手短にそう言ったのちに、通話を切った。竜夫は通話が切れたのを確認したのち、受話器を戻した。すぐさま歩き出し、みずきのもとへと戻る。ベッドに臥せているみずきは相変わらず苦しそうだった。


 あと三時間。待つ以外なにもできない、あまりにも苦しい時間が始まった。

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