第2部 竜の逆襲

前篇 新たな敵と新たな困難

第73話 ある過酷な運命の話

 病室にいた帝国兵士ケルビン・スタンレーに仕事の話が入ってきたのは、病弱な妹の見舞いに来ている最中であった。


「……行くの?」


 ベッドから身体を起こした妹は不安そうな顔をケルビンに向け、不安そうな声を上げる。


「ああ。それが仕事だからな。お前のためにも、無視はできない」


 ケルビンと妹には親はいない。二人がまだ子供だった頃、大陸全土を飲み込んだ大戦の余波により情勢不安による治安が悪化し、両親は自分たち二人を守って強盗に殺されてしまったのだ。


 それは、当然のことながら、過酷な生活の始まりだった。


 大戦が終結してもなお続く混乱のさなかに自分たちを庇護する両親がいなくなってしまえば、普通の生活なぞ望めるものではない。地べたを這いつくばり、泥水を啜って、残飯を漁って生きてきた。今日まで生きてこれたのは奇跡と言ってもいいだろう。それは、間違いなく好ましいことではあるが。


 しかし、その代償は大きかった。もともと身体があまり強くなかった妹は、不潔な残飯を食らい、泥水を啜って生きていくにはあまりにも弱すぎたのだ。難病を患い、一日の大半を横になって過ごさなければならなくなった。


 どうしよう。そう思った。当然、妹を病院に行かせる金などない。それどころか、両親が殺されてから、浮浪者同然の暮らしをしていたのだ。病院に行く金どころか、明日の飯代すらもない。自分たちは間違いなく持たざる者だった。


 難病に苦しむ妹を見るたびに、なんとかしなければとは思うのだが、長らく浮浪者として生きてきた自分にロクな働き口はない。犯罪組織の下っ端がいいところだろう。しかし、ケルビンは構わないと思った。自分が犯罪を犯すことで、妹の苦しみを和らげ、命を繋ぐことができるのならば本望だ。ケルビンは犯罪組織の下っ端として、数々の犯罪行為を行った。犯罪行為を行うのは良心が痛まないかといえば嘘になるが、それははじめのうちだけだ。ケルビンは、自身にもともとあった『能力』を行かして、犯罪組織の下っ端として活動していた。


 そうしてから、自分たちの生活は改善された。狭いけど雨風を凌げる部屋に住めるようになったし、なにより病院に連れていくこともできるようになったのだ。病院に行けばなんとかなるかもしれない。そう思って、ケルビンは妹を病院に連れていった。しかし、その先にあったのはさらなる絶望だった。


 診察をした医者はこんなことを言った。


「生憎、私のような町医者にきみの妹の病気をよくすることはできない。治療するには設備が必要だ。もっと早かったのなら、私でもどうにかできたかもしれないがね。このままだと持って数年だろう」


 医者は厳粛に、どこか悲しそうに妹に死の宣告をする。その言葉が冗談ではないことは考えなくてもわかることだった。


 妹はまだ十二。死ぬのにはあまりにも早すぎる。どうしてこんなことになってしまったのだろう? ケルビンは己に襲いかかる過酷な運命を呪った。


 医者は、妹の治療ができそうな設備がある大きな病院への紹介状を書いてくれたものの、ケルビンは打ちひしがれることしかできなかった。病院を紹介されたところで、こちらには大病院にある高度な治療を受けさせるような金などない。そこらの町医者に診てもらうことだっていっぱいいっぱいだったのだ。ケルビンの命を含め、すべてを投げ出したところで、その治療費を賄えるかどうかもわからない。それになにより、自分が命を投げ出せば、妹は一人になってしまう。両親は殺され、治療費を賄うために兄までもが死んでしまったら、ただ一人取り残された妹はあまりにも哀れだ。


 そもそも、大病院に行ったところで、確実に妹が助かるという保証もない。そこまで不確定要素が多いのに、自分の命を投げ出すべきではなかった。


 自分にはもうなにもできないのか? あと数年、妹と一緒にいることしかできないのだろうか? 苦しみを和らげることも、数年と言われた命を長らえることもできないのか? 数々の絶望が頭の中に濁流のように押し寄せてくる。頭の中に荒れ狂うその濁流をどうすることもできなかった。


 雨に打たれながら、絶望と無力感に支配され、諦めるしかないのかと思ったそのとき、目の前に現れたのは、一人の男だった。


「きみが、ケルビンくんかね?」


 細身のその男は無表情でケルビンのことを注視していた。その目はまるで、獲物を狙う猛禽のような鋭利さを持ち、とても堅気とは思えなかった。


「まあ、そう身構えなくていい。私はきみを殺すつもりもなければ、捕まえるつもりもない。きみをわが軍に迎えたいと思っているんだ」


 男の言葉を聞いて、ケルビンは「なに?」と重い声を上げる。なにを目的にしているのか、まるで理解できなかった。


「きみには特殊な力があるらしいな。その力を、我々に貸してくれないか? 無論、報酬は払う。きみの妹の治療費も肩代わりしようじゃないか。当然、我々に協力してくれタラの話だが」


 鋭利な目をこちらに向けながら、男は澱みなく言葉を紡いでいく。


 ケルビンは「なにをさせる気だ?」そう問いかけた。


「なに、きみの持つ力を生かし、汚い仕事をやってもらいだけさ。それとも、汚い仕事は嫌かね? 犯罪組織に加担していたきみが、生理的に受け付けないとは思えないが――」


 男は、随分とケルビンのことを調べているようだった。だが、ますますわからなくなる。自分にそこまでの価値があるとは思えなかったからだ。


「どうして自分が? と言いたげな顔をしているね。我々はきみの力を有用で、使えるものと判断した。ただそれだけだ」


 一切の感情を見せずに男は言う。能面でもつけているかのような無表情さはどこまでも不気味だった。


「なかなかいい話だと思うのだがね。我々は我々の目的のためにきみを利用し、きみは自分の目的のために我々を利用する。仕事というのは、そういうものだろう?」


 男は問いかけてきたが、ケルビンは答えなかった。


「まあ。すぐにとは言わないさ。好きなだけ悩むといい。我々は気が長いほうだからね」


 そんなことを言っていたが、こちらが悠長に考えている時間などないこと理解しているのだろう。それが、男のどこかから滲んで見えていた。


 ケルビンは「いや」と言って首を振り――


「あんたらの話を聞こう。どうせ俺には選んでいるような時間も余裕もないんだ。あんたらが言うように、俺は俺の目的のためにあんたらのことを利用してやる」


 ケルビンがそう言うと、男は薄く笑った。


 それから、ケルビンは身体検査を受けたのち、軍に入隊した。とは言っても、ケルビンが入ったのはまともな部隊ではない。あの男が言っていたように、軍が表立ってできない汚い仕事――隠さずに言えば暗殺である――を行う非合法の舞台だった。


 ケルビンが入隊すると、妹は軍の病院に移り、そこで治療をすることになった。


 それから八年、あと数年で死ぬと言われた妹はまだ生き長らえている。



「そっか。そうだよね。わがまま言ってごめんなさい」


 申し訳なさそうな声で妹は謝罪の言葉を述べる。


 妹は、自分がどんな仕事を行っているのかは知らない。もし、自分が行っているのは暗殺などといった表だってできないことだと知ったらどう思うだろうか? それは過去にも幾度となく頭の中に過ぎったことだ。


「いいよ。別に気にしてない」


 ケルビンは首を小さく横に振る。


「いつまでかかるの?」


 妹が再び問いかけてくる。その声が相変わらず不安そうなものだった。


「詳しい話はまだ。でもまあ、ちゃんと戻ってくるよ。いままでだって大丈夫だっただろ?」


「そうだけど……でも」


 妹は、一度ケルビンの目を見て、すぐ逸らして口ごもった。


「危ないことは、しないでね」


「大丈夫だよ。そんなに心配しなくていいって」


 妹を不安にさせないためとはいえ、嘘をつくのは心苦しい。


「それじゃあ、行ってくる。ちゃんと先生の言うことを聞くんだぞ」


「わかってるって」


 妹の返答を聞いて、ケルビンは病室を出た。


『毎度のことながら、よくやるな。飽きないのか?』


 先ほどまでずっと黙っていた同居者ブラドーの声が響く。


「飽きないよ。人間ってのはそういうものなんだ」


 ケルビンは歩きながらため息をついてブラドーの質問に答える。


『まあよい。様式美というやつだろう。やりたいとは思わんし、理解もできんが、俺に止める権利はないからな。好きにすればいいさ。それがお前の権利だからな』


 ブラドーは吐き捨てるような声で言う。


『で、次の仕事はなんだ?』


「さっきの話、聞いてなかったのか? 知らないよ。まあでも――」


 ケルビンが属しているのは暗殺を生業とする非合法部隊である。であるならば、確実に――


「誰かの暗殺、だろうな」


 ケルビンはそう言ったのちため息をついた。


『なんだ嫌なのか?』


「嫌じゃない、って言えば嘘になるけど、仕方ないさ。これは俺が選んだことなんだから。やるしかないよ」


 八年間、汚い仕事を続けていたからこそ、あと数年しか生きられないと言われた妹を今日まで生き長らえさせることができたのだから、嫌などと言っていられない。


「求められたことを求められた分だけやるだけさ。仕事ってのはそういうもんだろ?」


『さあ。俺に訊かれても困るね』


 ブラドーはとぼけるような声を響かせる。世間知らずなのか、興味がないのか判断しかねる声であった。


「話してないでさっさと行くぞ。あんたにだって俺を利用して叶えたい目的があるんじゃないのか?」


『……それでもそうだ。じゃあさっさと歩いてくれないか。何分俺は自分で動くことができない身でね』


 ブラドーは軽口を叩く。


「それだけ言えるのなら大丈夫だな。これからあんたの力を使うかもしれないんだから、気合い入れろよな」


 ケルビンはそう言い返し、病院の外へ出た。

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