第68話 仄暗い牢獄の中から

 それからわたしは、牢獄の中でただ無為に過ごした。一日三回の食事だけ与えられ、あとはなにも起こらない。牢獄の外に出してくれることも、ここがどこなのかを説明してくれることもなかった。当然のことながら、牢獄の中には娯楽などない。ベッドの上で、ただ牢獄の冷たい天井を見ていることしかできない時間が続いていく。ここまで自分が無力であると思い知らされたのは、いままでの人生で味わったことがなかった。


 はじめのうちは、誰かが見ているところでトイレをするのはとても嫌だったけれど、それすらも次第に気にならなくなった。閉ざされた場所というのは、その人の人間性を蝕んでいくものなのかもしれない。


 一応、食事は与えられていたけれど、はっきりいってそれは死なないために与えられる最低限のものでしかなく、お世辞にも美味しいとは言えないものだった。だが、それも牢獄の中で無為に過ごしているうちに気にならなくなった。


 いつまでわたしはこうしていなければならないのだろう? この牢獄の中で幾度なく行った問いを毎日のように繰り返す。でも、いくら考えてみても、その答えは出てくれない。時間だけがただ無為に流れていく。


 牢獄は、コンクリートのようなもので固められている。道具もなにもないわたしに、脱出できるはずもなかった。


 いや、そもそもここから逃げたところでどうするのか? ここは東京どころか、日本ですらないのだ。そんな場所でこの牢獄の外に出たところで、なにもできずに野垂れ死ぬことは、人としての尊厳を奪われ続けているいまでも容易に想像がついた。恐らく、軍服や白衣もそれがわかっているのだろう。


 この苦しみから解放されたくて、死のうと思ったこともあった。だけど、道具もなにもない牢獄の中では、自分の舌をかみ千切るくらいしか手段がない。だから怖くてできなかった。いまもなお無様に生き続け、緩慢な人としての死の道を歩み続けている。


「――――」


 どこかから叫ぶような声が聞こえてきた。やはりその言葉はまったく理解できない。しかし、なんと言っているのかは想像がついた。たぶん、「ここから出せ」とかだろう。当然、牢獄の見張りがそれを聞き入れてくれるはずもない。そもそも、叫んだくらいでここから出してくれるのなら、牢獄に入れたりはしないだろう。


 牢獄に入れられてからどれくらい時間が経ったのだろうか? 時計もなく、陽の光すらも入ってこない地下ではそれがわかるはずもない。それどころか、いまが昼なのか夜なのかすらも不明である。その時間感覚のなさもわたしの人間性をはく奪していっているように思えた。


 このまま、わたしは残りの人生をここで過ごさなければならないのだろうか? そう思うと、心から恐ろしくなった。わたしは、どうしてこんなことをされているのだろう? こんな牢獄に入れられるような悪いことなんてした覚えはないのに。本当に、理不尽だ。


 そう思いながら、わたしはベッドの上に寝転がって天井を見つめることしかできない。わたしはどこまで無力なのだろう? ここに入れられてから、そればかり思い知らされる。自分の無力さを徹底的に思い知らされるのは、精神的に来るものがあった。それも、わたしの中にある人間性を奪っているのだろう。本当に、嫌になる。


 嫌になろうが、人間性を奪われようが、いまわたしを取り巻く環境は変わらない。自由を奪われ、一日三回の食事だけを与えられる、モルモットのような生活を牢獄の中で続いていく。


 友人や家族はどうしているのだろう? そう思った。ここに来てから何日か経っているから、不審に思っているはずだ。だけど、この状況では連絡などできるはずもない。わたしが持っていた鞄は、ここにいる軍服に奪われているのだから。やっぱり、わたしはなにもできない。


 あまりにも無力な自分に泣きそうになっていたそのとき、大地を揺るがすような轟音と震動が感じられた。ベッドに寝転がっていたわたしは飛び起きて、鉄格子の前へと踏み出して、外を覗く。牢獄の外はいつも通りの光景が広がっていた。見張りが一人いるだけの、無機質な空間。見張りの軍服は、先ほどの轟音と震動を気にしている様子はない。結局、なにもできずにわたしはベッドへと戻った。


 轟音と震動が感じられてからしばらくすると、奥の扉が開かれる音が聞こえた。見張りの交代の時間だろうかと思ったが、違うようだった。いつかのわたしのように、軍服に連れられて、誰かがこの牢獄に新しくやってきたのだ。


 やってきたのは、病的に肌が白い耳の長い金髪の女性。ファンタジーでおなじみのエルフのように見えた。彼女はわたしの隣の牢獄に押し込まれたらしい。なにか叫んでいたけれど、やっぱりその言葉はまったく聞いたことがないものだった。言葉はわからなかったけれど、なんと言っているのかはやはり想像がついた。わざわざ言うまでもないだろう。


 だが、今日はそれで終わらなかった。どこかの牢獄が開けられる音が聞こえてきた。わたしは再び鉄格子に近づいて、外を覗く。手前にある牢獄から、獣耳で尻尾が生えている娘が連れ出されていた。それを見て、わたしは少しだけ嬉しくなる。もしかしたら、わたしもここから出れるかもしれない。そう思えたからだ。いつか、わたしの番も回ってくるのだろうか? そう思いながらわたしは再びベッドに寝転がった。



 また一人、また一人と牢獄の外へと連れ出されていく。新しく誰かがやってくることはなかった。どんどんと牢獄に押し込まれた人がいなくなっていく。牢獄から出たものが戻ってくることはない。気がつくと、わたしの正面の牢獄に入れられていた人もいなくなっている。どうしてわたしにその順番が回ってこないのか、と思った。


 相変わらずぱさぱさで美味しくない食事を一日三回与えられるだけの日々が続く。わたしが無為に牢獄で時間を浪費している間に、どんどんと牢獄の外に連れ出される人が増えていった。牢獄にいた人が減ったせいか、日ごとに静けさが増していく。はやくわたしの順番が回ってきてほしい。そう思ったけれど、わたしの牢獄の前に軍服はやってこない。また一人、また一人と、牢獄の中の人が減っていく。わたしには、ここから出される日を、ただ待っていることしかできなかった。



 隣の牢獄にいたエルフの娘が軍服によって外へと出された。わたしから見える範囲には、牢獄の中には誰もいない。わたしだけがこの無慈悲な世界に取り残されているように思えてならなかった。


 それでもわたしは希望を捨てることができなかった。次こそは、次こそは、と思い続け、ここから出れる日を待ち望んでいる。


 今日もわたしはベッドの上で冷たい天井を眺めていた。もうすぐわたしもこの牢獄から解放されると思うと、今日を生きようという気力が湧いた。あと少しで、それをつかめるはずだから――


 そう思っていたとき、いきなり景色が歪んだ。床と天井が反転し、灰色だったはずの壁が極彩色へと変化していく。それは、明らかに異常な光景だった。自分がどこにいるのか、どこまでが自分でどこまでが外界なのか曖昧になっていく。


 なにが起こっているのか、まるで理解できなかった。


 わたしは立ち上がろうとする。だけど、床がおかしなくらい波打っていて、立つこともままならなかった。転んでも、床がぐにゃぐにゃなので痛みは感じない。それどころか、床と足が同化して溶けていく。その感覚は、冷たい牢獄の中にい続けたわたしにとってどこか心地いいものだった。


 きっと、わたしはこのまま世界と同化するのだろう。そう思った。たぶん、そのほうがいまのわたしにとって救いになるかもしれない。このまま牢獄の中で一生過ごすよりはましなはずだ。


「――――」


 声が聞こえた。誰の声かはわからない。でも、何故か聞いたことがあるような気がした。一体、どういうことなのだろう? 世界と同一化しつつあるわたしには関係のない話だ。邪魔しないでくれ。


「――か?」


 再び声が聞こえてくる。やはり聞いたことがある響きだった。ここに来てからずっと、なんと言っているのかわからなかったはずなのに、どうしてだろう?


「――夫か?」


 また声が聞こえる。せっかくいい気分なのに、どうして邪魔をしてくるのだろう? もうわたしにはこれしか救いがないのだ。お願いだから、やめてくれ。そう思ったけれど――


 そこで、わたしは気づく。どうして、いま聞こえてくる声を知っているように思えてならないのかに。そんなの当たり前じゃないか。あの声の主は――


「大丈夫か?」


 今度ははっきりと聞き取れた。そうだ、間違いない。わたしに語りかけている言葉は――


 わたしが知っている言語。しかも、日本語に他ならなかった。


 極彩色に歪んだ世界がもとに戻っていく。鉄格子の外にいたのは――


「よかった……生きてる」


 わたしと同じくらいの年齢の青年の姿があった。彼は、いまにも泣き出しそうな顔で、牢獄の中を這いずっていたわたしのことを眺めている。


「本当に……よかった……!」


 彼が見せたその表情は、まるでわたしに救われたかのようだった。

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