第56話 異界より出でし昏きもの

 竜夫はその身を怒りで震わせながら歩き出す。


 ここにいる奴らにとって、召喚された自分たちは家畜同然だったのだ。その事実に言いようのない怒りを感じるとともに、自分だけが真の意味で幸運に恵まれていたという事実が竜夫の心をより暗澹とさせた。


 自分以外の人たちがどうなっていたのかを知って、どうして自分だけがあのような幸運に恵まれたのかと。どうして自分だけが助かってしまったのかと、いまここでどのように思ったところで、異世界召喚された人たちが人体実験されていた事実が変わるわけでもないと理解しているのに、そう考えざるを得なかった。


 どうして、と思う。


 自分は急死に一生を得たというのに、どうしてもそれを喜ぶことができなかった。いくらそれを頭から追い出そうとしても、それは脳内を縦横無尽に駆け巡り、際限なく怒りと嫌悪感を湧き出させる。


 この場所から、一刻も早く立ち去りたい。そう思った。だが――


 嫌悪感と怒りに任せて、ここから出てしまえば、もとの世界に戻る手がかりが白紙に戻るのは明らかであったし、このような機会が再びあるとも思えなかった。


 そしてなにより、そうするということは、自分と同じように無意味に異世界に召喚され、いまもなお残虐な人体実験の材料とされている人たちを見捨てるということに他ならない。曲がりなりにも力を持つ自分が、そうすることが正しいとはどうしても思えなかった。


「立ち止まるのも……逃げるのも駄目だ」


 竜夫は重くそう呟き、自分に言い聞かせた。がんがんと頭の中を駆け巡る頭痛と嫌悪感に苛まれながらも、竜夫は暗い廊下を進んでいく。


 自分の目的を達成するために。


 あるいは、自分と同じように無意味に異世界に召喚され、自分とは違って人体事件をされてしまった誰かを見つけるために。


 竜夫は、ただ前を進んでいく。


 暗い地下の廊下は相変わらず静寂に包まれ、自分の足音だけが空虚に響いている。


 しかし、暗い地下の廊下から、この場所のどこかで人体実験をされた誰かの嘆く声が響いているような気がした。


 この清潔感のある廊下に、邪悪で血生臭い『なにか』がこびりついているような気がしてならない。


 いまそこに立つこの場所が、資料室に入る前に見ていたものと同じ場所であるとはどうしても思えなかった。ここは、人が持つ悪性に満ちた異界だ。自分はいま、その邪悪なる異界の中を進んでいる。どうしてこんなことをしなければならないのだろう? 首を傾げたくなる。


 それでも、竜夫は前に進む足を止めない。止めることができなかった。止めていいとも思えなかった。


「僕は……どうしたらいい?」


 誰かに訊ねるように、竜夫は言葉を漏らした。当然のことながら、それに答えてくれるものは誰もいない。自分の発した声は、悪性に満ちた異界の中に吸い込まれて消えていく。


 自分は一体どうするべきなのか? 自分以外の誰かにそれを教えてほしかった。いまここで、知るべきではなかった事実を知ってしまった自分がどうするべきなのか、その道を示してほしかった。


 しかし、いくらそう思ったところで自分を導いてくれる者など誰もいない。異邦人である自分は、結局どこまで行っても孤独なのだ。あらためてそれを実感した。そんなこと、とっくの昔に理解していたはずなのに――


 頭の中で反響する怒りと嫌悪感はなおも増大を続けていた。先ほどまで感じていたはずの敵しかいない、見知らぬ暗い場所を歩く恐怖と緊張感はまったくない。いまあるのはこの場所で鬼畜の所業を行っていた者たちへと怒りと嫌悪感だけだ。この場が人の悪性で満ちているように、自分の脳内は怒りと嫌悪感に支配されている。


 殺してやりたい。心の底からそう思った。


 いまこの瞬間、目の前にこの施設の人間が現れたら、自らの危険を顧みることなく、そいつを殺しにかかるだろう。そう断言できてしまうほど、竜夫の中は怒りと嫌悪感に包まれていた。敵しかいないこの場で、衝動に任せそのような行為に及ぶのは危険だとわかっているはずなのに――


 誰かが行った行為に対し、それほどまでに強い感情を抱いたのははじめてだ。


 ぎり、と竜夫は自分の歯を軋らせる。そうしていなければ、わずかに残っている正気すらも保っていられないと思ったからだ。


 そのとき――


 背後から気配を感じ、竜夫は振り返ると同時に、その方向を確認することもなく、その手に刃を創り出し、一気に床を蹴ってそちらへと踏み出した。


 踏み出すと同時に、見えたのは若い男の姿。どういうわけか、現れたそいつは動き出さない。踏み出した竜夫は一瞬でそいつとの距離を詰め、その手に持った刃で敵の首を切り裂こうとして――


「ま、待て。あんた、一体なにを――」


 そんな声が聞こえて、竜夫の刃は男の首に触れたところで止まった。


 そこにいたのは、自分同じく、この施設内に進入をしていた破竜戦線のメンバーだった。ここに侵入する前の作戦会議に参加していた一人である。その顔には、確かに見覚えがあった。


「…………」


 そこでやっと、竜夫は自分がいまなにをしようとしていたのかを認識した。


 自分はいま、怒りに身を任せ、この施設とはまったく関係ないはずの人間を殺そうとしたのだ。その事実に、愕然とするしかない。


 刃を突きつけられた男に抵抗する意思はないことを確認したのちに、竜夫は無言のまま手に持った刃を消す。


「……すまない」


 竜夫はその言葉だけを殺そうとしてしまった男に対して言う。


「いや、別に気にしなくていい。状況が状況だ。あんたの姿が見えて、不用心に近づいたおれの方が悪い」


 男は、少しだけ動揺を滲ませた声で言う。その口調はどこか人間味を感じさせた。それが、竜夫を支配しつつあった怒りと嫌悪感が少しだけ緩和し、わずかではあったものの冷静さを取り戻すことができた。


「どうしてここに?」


 男にそう質問してすぐ、そんなの言うまでもないだろうと思ったが――


「近くを通りかかったら、地下から大きな物音が聞こえたからな」


 男は気にする様子もなく、竜夫の質問に答えてくれた。その、なんでもないやりとりが、人の邪悪さを触れてしまったいまとなってどこまでもありがたい。そう思えた。


「見たところ、戦闘があったようには見えないが、なにかあったのか?」


 男はあたりを見回しながら竜夫に質問する。


「いや……」


 どう答えるべきか迷い、竜夫は口ごもった。


「戦闘をしたわけじゃない。だが、さっき動き出した奴がいて、そいつを始末した」


 少しだけ考えたのち、そう答えた。事実とは異なるが、別にどうでもいいだろう。そう判断した。


「そうか。作戦を開始してから五十分になる。そろそろ回復しだす奴がおかしくはないな」


 男は腕時計を見ながら冷静にそう告げた。


「ところで、あんたの目的は達成できたのか?」


「いや、残念ながらまだだ。そっちは?」


「まだ完全には終わっていないが、ここには俺たちが探しているものはありそうにない。恐らく外れだ。おれも含め、調査が完了し次第、脱出する」


「…………」


 こいつらが探しているものとは一体なんなのだろう? そう思ったけれど、訊いたところで答えてくれるはずもないのでその言葉は飲み込んだ。


「まあいい。敵が回復しつつある以上、ここでいつまでも立ち話しているのはまずい。おれはさっさと済むこと済ませて脱出したいんだが、あんたはどうする?」


「この奥に行くのか?」


 竜夫は、暗い廊下の先に顔を向ける。


「ああ。目的のものはなかったとしても、なにか手がかりが見つかるかもしれんからな。危険だが行くしかない」


 男は強い決意が感じられる言葉でそう言った。ハンナも含め、この破竜戦線の人間たちを動かしているものは一体なんなのだろう? 政府を打倒する以外の、なんらかの強い目的意識が感じられてならない。ただの危険な反政府組織とはどうしても思えなかった。


「わかった。僕が探しているものはこの先にあるかもしれないから、一緒に行かせてもらうけど、いいか?」


「大丈夫だ。さっきのあんたの様子なら、足手まといにはならないだろう。敵が回復しつつあるいまの状況であんたがいるのならこっちとしても心強い」


「そうか。じゃあ僕が後ろ警戒する。あんたは前を頼んだ」


「ああ。いいぜ」


 竜夫と男は暗い廊下を歩き出す。相変わらず、そこには人の気配が感じられない。


 しばらく進んだところで――


「そう言えば、あんたの名前は?」


 男は前を向いたまま、そう言った。竜夫は「氷室竜夫」とだけ簡潔に答えると、男は「聞き慣れない響きの名前だな」と返してくる。


「そういうあんたは?」


「アレン」


 男――アレンは前を歩きながら即答する。


「まあ、成り行きとはいえ命を預けるわけだから、仲良くやろうぜ」


 そう言ったアレンの声は気さくに感じられた。その何気ない感情が、嫌な事実を知ってしまったいまとなってはなんとも心地いい。


 それでも、竜夫の中に生まれ出た黒い感情が消えることはない。


 竜夫は、アレンと一緒に、この人間の悪性に満ちた暗い廊下を進んでいった。

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