第52話 突入

 結局、ハンナとそれから会話をしないまま夜を迎え、その後、潜入を行う部隊が現れて、彼らと竜夫は潜入の手はずをひと通り確認し合ってから眠りについた。

 色々と不安なことはあった。


 実態がよく知れない反政府組織との協力。そのリーダーと思われる女が見せた明らかに異常な反応。他にも、不安要素は色々とある。


 だが、そんなものでも縋らなければやっていられないのがいまの竜夫の状況である。現状では、潜入を一緒に行う破竜戦線の人間は完全に信用を置くことはできない状況だ。自分の身は、自分で守るしかない。それはいままでと同じではあるのだが――


 眠りにつく前も、それから数時間が経過して目を覚ましてからも、しばらくそれについて考えていた。


 そうしていると――


 部屋の扉がノックされ、竜夫が「どうぞ」と小さく言うと、相変わらず薄っぺらな笑みを浮かべたアースラがそこに立っていた。どうやら、そろそろ時間がきたらしい。


「もうお目覚めでしたか」


 外はまだ暗い。しかし、行うのが潜入である以上、警備が手薄な時間を狙うのは定石だろう。それに、こちらは正規軍ではないので、国際法を守ったところで、身の保証など一切ない。


「ご準備のほうはいかがですか? なにかあるのなら、できるだけ手早く済ませてほしいところなのですが――」


「いや、大丈夫だ。行こう」


 竜夫が立ち上がると、アースラは「では、行きましょうか」と言って歩き出す。その様子は数時間前、ハンナと会話していたときと一切変わらなかった。


「お前は寝たのか?」


 先を歩くアースラに竜夫は問いかける。


「ええ。少しだけですが、取らせていただきましたよ。重要な作戦ですからね。睡眠不足のせいで失敗したのではお話になりませんから。いささか足りていないのは事実ですが、取らないよりはマシでしょう。もしかして、私のことを心配して下ってるのですか?」


 前を歩くアースラの顔は見えなかったが、どんな顔をしているのか容易に想像できた。きっと、相変わらずどこか人間味の欠けた、薄っぺらい笑みを浮かべているのだろう。


「いや、それは素晴らしいというか、申し訳ないですね。客人にそんな心配をかけさせるのはもてなす側としてはあまり褒められたものではないですから。ええ。大丈夫ですよ。心配には及びません。我々もそれくらいは慣れておりますから。なにぶん、我々も軍に追われる地下組織ですからね。それくらいできなければ、そんなものやっていられませんし」


「…………」


 竜夫とアースラは階段を降りて廊下を進んでいく。明るい時間帯でも薄暗かった廊下は、日が沈んだいまは、さらに暗くなっている。あたりを包む闇は自分の身体を侵食してくるような気がするほどだった。


「ハンナは大丈夫なのか?」


 竜夫は、前を歩くアースラに、あれから結局言葉を交わすことがなかったハンナのことを問うた。突然ハンナが起こしたあまりにも異常すぎる発作のことを思い出す。


「そう訊かれると、答えに困りますな。なにしろ、ハンナ殿のあれは不治の病のようなものですから」


「医者にはつれていかないのか?」


「医者に頼りたいのはやまやまですが、ハンナ殿のあれは、現代の医学ではどうすることもできないのですよ。厳密に言えば、あれは病気ではありませんから」


 病気ではない、というアースラの言葉に引っかかりを覚えた。あのてんかんの発作のようなあれが、病気でなかったら一体なんなのだろう?


「まさか、悪魔にでも憑かれてるのか?」


 竜夫は何気なくそう言ったが、その瞬間、わずかにアースラが身に纏っていた空気が一瞬だけ変化したのを感じた。だが、わずかに生じた変化はすぐに消え去って、「まあ、似たようなものです」と小さく言う。


「憑かれているのが悪魔であったのなら、よかったのですけどね」


「どういうことだ?」


 呟くように言ったアースラの言葉に、竜夫はすぐに問いかけたものの、彼はその問いかけには答えなかった。


 そのまま廊下を進み、扉を開けて外に出る。


 まだ深夜と言ってもいい時間帯の町は、一切の静寂に包まれていた。口外であるためか、帝都よりも遥かに街灯の数は少ない。数メートル先もろくに見えないほどの暗闇に包まれている。しかし、アースラはその暗闇の中も迷うことなく進んでいく。竜夫は、それについていくことしかできなかった。


 お互い無言のまま、十五分ほど暗闇に包まれた町の中を歩いていると――


「ここです」


 目の前にぽっかりと、明かりに包まれた場所があった。数メートルはある高い壁と、その上に鉄条網がある。明らかに住宅ではない建造物。ここが、この町にある件の軍事施設であることは間違いない。


 あの竜が自分を助けたときの痕を探そうと思ったが、ここからでは見えそうになかった。


「センサーなんかはないのか?」


「ふむ、タツオ殿が仰るそれがなんなのかはよくわかりませんが、高い壁と鉄条網と見張りの兵以外はありませんよ」


「……いや、それならいい。いまのは忘れてくれ」


 アースラの言葉をそのまま信じていいのなら、この世界にはまだ赤外線センサーに類するものはないようだが――


「でも、どうやって見張りを無力化するつもりだ? 兵士がいるのは、正門だけじゃないだろ?」


 この距離からでも、灯台のようにあたりへ光を向けている監視塔いくつかあるのがわかった。竜夫ならば、この高い壁を飛び越えるのは容易だが、そんなことをすれば監視塔に見つかるのは目に見えている。


「心配なさらずとも大丈夫ですよ。これからしっかりとやりますから。私のことは竜の背に乗った気持ちで任せていただければ。あなた様のお望み通りに十全に行くかどうかはわかりませんが、最善を尽くしましょう」


 軽薄そうな声でそう言うと同時に、アースラから奇妙な匂いが漂ってくる。それは、ハンナが夢の中に現れた前に嗅いだものとどこか似ていた。そう思った瞬間――


 竜夫の視界がぐるりと歪んだ。


 天地がひっくり返り、硬いはずの地面が柔らかくなって、おかしな泣き声のようなものが耳の中を蹂躙していった。自分がいま立っているのかどうかすらもわからなくなる。時間の流れがやけに遅く感じられた。なにが、起こったのか?


 前に進もうとするが、なにかに阻まれて進めない。いま自分は倒れているのか、それともなにか別に遮るものがあるのか、どちらなのかもわからなかった。


 竜夫は、そのおかしくなった世界の中でもなんとか自分を保とうする。しかし、いくらそう思おうとしても、世界は際限なく歪み続けた。耳を蹂躙する雑音は間延びしたり、戻ったりを繰り返し、流れているはずの時間の感覚をおかしくさせていく。


「…………」


 雑音に混じって、わずかに声が聞こえた。耳障りな雑音に遮られて、なんと言われたのかも認識できない。


 頭が痛い。このおかしくなった世界にいたら、自分の頭もほどなくしておかしくなってしまう気がした。だが、この場から逃げようと思って身体を動かそうとしても、なにかに遮られてまったく進むことができない。


「……夫……す……」


 再び誰かの言葉が聞こえてくる。やはり、なんと言ったのか聞き取ることはできなかった。


 世界はさらに歪んでいく。自分という存在そのものが消えていくような気がした。どこからが自分で、どこからが外界なのかはっきりとしない。それほどまでに世界が歪んでしまっていた。


「大丈……で……か?」


 おかしくなり続ける世界の中にわずかに声が聞こえてくる。聞いたことがあるような声のような気がしたが、よくわからなかった。


 世界を支配する混沌はさらに深まっていく。次第に、自分をも巻き込んでいく混沌が心地いいものに思えてきた。自分はいま、間違いなく世界と同一化をしている。


「大丈夫ですか?」


 世界と同一化しつつあった竜夫の思考は、はっきりと聞こえた誰かの声で遮られて――


 その瞬間、世界がもとに戻った。


「…………」


 竜夫はあたりを見回す。ぐちゃぐちゃに歪む風景も、どこまでも間延びしていく雑音も、世界と自分の境界を曖昧にし、同一化していく感覚も消えてなくなっていた。ただ、言葉にできない不快感だけがはっきりと残っている。一体、なにが起こっていたのか?


「立てますか?」


 横からアースラの声が聞こえて、そちらに振り向く。


「いまのは……あんたがやったのか?」


「ええ。正確に言えば、私がハンナ殿の力を借りて行ったことですが」


 そう言ったアースラは、激しい運動をしたかと思うほどの汗を流していた。竜夫はゆっくりと立ち上がる。


「作戦のためとはいえ、巻き込むような形になってしまいましたが許していただきたい」


「いや、いい。ところで、僕はどれくらいこうしていたんだ?」


「十五分ほどです」


 十五分。体感では、まだ何十秒かくらいしか経っていないと思っていたが、アースラが発生させた幻覚によって、自分の体感時間すらもおかしくさせられていたようだ。


「問題なく動けますか? いや、動いてくれないと、こちらとしても困るのですが――」


 アースラの声には明らかな疲労の色が感じられた。いつも感じさせていたあのわざとらしい軽薄さに陰りが見えている。


「大丈夫だ。もう、動ける」


 竜夫は自分の手足が問題なく動くことを確かめる。頭痛はまだ残っていたものの、身体には異常は見られなかった。


「成功、したのか?」


「……ええ。私と同時ほぼ同時に、待機していた他の仲間も、ハンナ殿から分け与えられた力を使っていましたから、もうすでにこの施設内の大部分に影響を及ぼしています」


 先ほどまで動いていたはずの監視塔の光の動きが止まっていた。どうやら、自分が見た幻覚が施設の中にまで影響を及ぼしているのは間違いないらしい。


「力を分け与えるって……そんなこともできるのか」


 そう言ってすぐに、自分自身もあの竜から力を与えられたことを思い出して、すぐに思い直した。そういうことも、できるのかもしれない。


「あんたは、大丈夫なのか?」


「ええ。ご心配なく。なにぶん広い範囲に影響を及ぼしたものですから、相当に体力を消耗しましたがね。死ぬようなことはありません」


「……そうか」


 竜夫はそう言って、目の前に立ち塞がる壁に目を向ける。これ以上、言葉を交わす必要はないと思えた。


「それでは、ご武運を」


 アースラの言葉をはっきりと聞いたのを確認したのちに――


 竜夫は、地面を蹴り、目の前にある壁に向かって走り出した。

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