第19話 喪失
目の前に、真っ赤に染まった人だったものが転がっている。それはまるで生きているかのように血を流しているのに、微動だにしない。
もしかしたらあの男ならば、この状態からでも動き出すかもしれない、と思って用心していたけれど、動き出す気配はまったくなかった。傷男は、間違いなく絶命している。二度と動くことはない。
それから竜夫は、自分の手を見た。
傷男を殺害したその手は鮮やかな赤色に染まっていた。べたべたとした、生温かい感触が確かに感じられるから、それは幻覚ではないのだろう。
自分でも意外になるくらい、血を浴びたことに対して不快感はなかった。どうしてかはわからない。血を見る機会なんてほとんどなかったはずなのに。やはり、竜の力を得たことによって、なにかしら自分のどこかが変わってしまったのかもしれなかった。
そこまで考えたところで、早くここから去らなければ、と思った。
理由がどうであれ、自分は人殺しをしてしまったのだ。この世界では人殺しをしても罪に問われないなんてことはないだろう。ましてや、自分はこの世界において、存在しない人間なのだ。まともな弁護など期待できるはずもない。
「ひっ……」
後ろから声が聞こえて、そちらを振り向く。そこには、腰を抜かした状態のチンピラがいた。どうやら、傷男が絶命したことによって、力が解除され、正気に戻ったのだろう。その表情は恐怖に染まっている。
「み、見逃してくれ……。ちょっとした出来心だったんだ。お願いだから、殺さないでくれ……」
チンピラはがたがたと震えながら、たどたどしい言葉で言う。昨日、バーでいちゃもんをつけてきたのと同一人物とは思えなかった。
「…………」
竜夫はチンピラに目を向け、一歩近づく。すると、チンピラは情けない声を上げて後ろにずり下がる。いち早くこの場から逃げ出したいのだろうが、恐怖によって立ち上がることすらままならないのかもしれない。目の前で知っている人間を無残に殺されたら、ああなってしまうのはきっと正常な人間の証なのだろう。そんなことを思った。
「も、もうあんたには手を出さないと誓うから、見逃してくれ。あんたの言うことも聞く。し、死にたくない……」
自分がいま、どんな表情をしているのかはまったくわからない。だけど、チンピラからは、いまの竜夫はよほど恐ろしい表情に見えているのだろう。そのような表情は、いままでの人生で一度も見たことがない。この男の心が折れているのは誰の目から見ても明らかだった。
そんなチンピラの表情を見て竜夫は、どうしようかと思う。幸運なことに、この現場を他の人間に目撃されていないから、自分の身の安全を考えるのであれば、このチンピラを口封じのために殺してしまったほうがいいのかもしれない。
だが、そうしようとは思わなかった。もうこのチンピラはなにがあっても自分に突っかかってくることはないだろう。
それに、ここまで恐怖に染まった人間を殺そうとも思えなかった。無益な殺生はしない、なんて言えるほどの余裕はなかったが、見逃してほしいと懇願する人間の願いを葬り去って突き落としてやりたいとも思わなかった。
「いいだろう。見逃してやる」
竜夫がそう言うと、チンピラは少しだけ安堵の表情を見せた。
「その代わり、条件がある。さっき、言うことを聞くと言ったな。それを守るというのならちゃんと見逃しやる。破ったら、どうなるかわかっているな?」
竜夫がそう言うと、チンピラは情けない声を上げた。殺すつもりなどまったくなかったが、保険をかけておいて損はしないだろう。
「まず、お前らのボスに伝えておけ。殺されたくなかったら、僕に二度と手を出すな。お前らが手を出さないのであれば、僕だって手を出すつもりはない」
それは、自分で言っているとは思えないほど冷徹な言葉に聞こえた。誰かを本気で脅すなんて、いままでの人生でやった覚えなどまったくないのに、どうしてそんなことができるのだろう? 自分でも不思議に思う。
だけど、できるのであればいまは都合がいいのは事実だった。チンピラの態度を見る限り、いまの脅しは充分に効果が期待できるだろう。
「警察を含めて、この件に関してなにか聞かれたら、なにも知らないと言え。守れないのであれば、お前を探し出して殺してやる」
自分で言いながら、恐怖というのは誰かを服従させるのになんて都合がいいのだろうと思った。恐怖というのは、人間の認知を歪ませるのに最適だ。過去に存在した多くの独裁者がそれを利用したのも頷ける。
「最後に一つ。そこに転がっている死体を始末しておけ。手段は問わない。だが、できる限り周到に行え。いいな? できなきゃ殺す」
竜夫の言葉に、チンピラは「は、はいっ……」とどもりながら情けない声で返答する。それからもう一度、チンピラに目を向けたのち、歩き出す。後ろを振り返ろうとは思えなかった。
少し歩いたところで、浴びた血をなんとかしなければと気づき、浄化の力を発動させる。温かい力に全身が包まれると同時に、身体中にまとわりついていた、べたべたとした生温かい感触が消え去った。恐らく、これで大丈夫だろう。
竜夫はもう一度、自分の手に目を向ける。もうその手には一切、浴びた赤い液体は付着していなかったはずだ。なのに、まだ身体のどこかに残っているような気がしてならなかった。
自分の中にあった『なにか』が失われた気がする。そんなことを思った。自分の身を守るために傷男を殺す前には確かにあったはずの『なにか』――その正体はわからなかったけれど、失われたそれはただの気のせいとも思えなかった。
もしかしたら、この世界で生き抜くためには、今回のように自分の中にある『なにか』をどんどん失っていくのかもしれない。そうやって失い続けた結果、もとの世界に戻ったとき、どれだけものが自分の中に残っているのだろう? 少しだけそれを考えてみたけれど、まったくわからなかった。
とにかく、失うにしろ、そうでないにしろ、とにかく今日を生きていかなければならないのだ。自分のことを誰も知らぬ世界で、誰にも知られぬまま死んでいくのは嫌だったから。
明日なにを失うかを考えるより、今日をどうやって生きていくかを考えよう。竜夫は歩きながら、そんなことを思った。
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