第8話 白井くんの歓迎会


 目を覚ました後も――

 私は、傷ついた心を抱えたままだった。


(とてもとても……恥ずかしい。こんなの子供っぽい感傷だ)


 そう思うのに、心が簡単には受け入れてくれなかった。


 白井くんは、私を好きだから近づいて来たんじゃなかった……。


 そのことを考えただけで、心がズシンと重くなる。


 考えてみれば当然のことなのに、なんであんな勘違いが出来たんだろう。


 目的があって近づいて来たけれど、でもその目的は私の為だけのもので……彼は何一つ悪い事をしていなかった。


 とても優しくて良い人だ。

 だからこそ……私はきっと彼を好きになった。


 涙が溢れて、止まらない。


 だって、初恋だった。

 初めて好きだと思える人に出逢えた。


 彼と触れ合ったとき、全身が熱く震えた。あんな感覚は生まれて初めてだった。

 異性を意識したとき、こんなにも自分が変わるのかと思った。


 そう……私はとっくに、白井くんに恋をしていた。


 彼の人柄を知る度に、心地よく過ごせる時間の積み重ねに、段々と惹かれていたのだ。


「ふぅ……」


 デートの日のことを思い出すだけで、幸せだった記憶が蘇って来て、耐えられなくなる。


(恋が始まってるって思ったの……)


 二人の恋が始まってるって。

 でも違った。私が一人で彼にのぼせていた。


 まさか……終わってからそれを自覚することになるとは思わなかったけれど。


(白井くんは……最初から私を心配して、見つけてくれたんだよね)


 どうやって見つけたのかも分からないけど、優しい……彼の人柄が本物だったのだと、その行為から改めて知ってしまう。


 そんなの……今までよりも、もっともっと……彼を好きになってしまうだけだ。


 好かれているのだと勘違いして、私は初めての恋に浮かれていたのに。


(恥ずかしい……)


 穴があったら入りたいとはこのことだと思いながら、ベッドの上を転げまわる。


(彼にはそんな気はなかったのに)


 そうして止まらない涙を流してしまう。


「失恋……なんだよね?」


 私を気にして会いに来てくれたけれど、それは心配や同情みたいな想いで、告白してくれたのも、私を現実に引き戻そうとしていただけで……出逢ったばかりの私たちは、本当に好きになってもらえるほどの時間を過ごしてもいない。

 あんなに特別にカッコイイ男の子が、彼女が居なかったり、私を求めてくれることはないだろうと思う。


 バイト先の女子たちだけじゃない、きっと大学でも彼は目立っているはずだ。

 これから先の人生もきっと。

 だって彼はとても素敵な人だ。見ず知らずの私ために、優しさを分け与えてくれた。

 そんな人には、きっと、めったに出会えないんだ。


「うぇ……っ」


 タオルを思い切り顔に押し当てる。


 恋が始まっているって、その恋は育てれば叶うものだって、なんでそんな風に思えたんだろう。

 おこがましいにもほどがある。


 朝までに、涙を止めなくちゃいけない。

 今日は大学に行ったあとは、夕方からバイトと、そして……白井くんの歓迎会がある日だ。


 バイトも……もしかしたら白井くんは辞めてしまうのかな。

 もう、私の側にいる理由などないのだから。


 それでも……友達に……なれるかな。


「止まれ……涙」


 あの素敵な人と、友達になれるだけでも、すごく嬉しいことだ。

 でもそれには、こんな勝手に傷ついて泣いているような子ではお呼びではないのだ。


(強く、なりたいな)


 見ず知らずの私を助けてくれようとした、白井くんのように。

 私も、優しい人になりたい……。


 夢を見るように、考えたくないことを考えないように生きていた私は、もう卒業したい。


 それには……。

 息を吸うのも苦しいくらいの、この胸の痛みを受け止めなくちゃいけない。


 泡に消えた人魚の姿を思い出す。


 私は消えなかった――だからきっと、今心に痛みを感じることが出来ている。










「茉莉……なに、その顔?」


 大学のカフェテリアで皐月ちゃんが言った。

 そう言われるのも仕方がない位……私の瞼は腫れていた。


「病気じゃないよ」

「うん?」

「泣き過ぎたの」

「……なんで?」

「……」


 なんで私はあんなに泣いたのかな、と考える。


「失恋したと、思うの……」

「……」


 皐月ちゃんは、はぁ、とため息をつくようにして私の隣に腰を下ろす。


「……本当に?」

「え?」

「いや、どう見ても、あっちが押せ押せに見えたよね」

「……」

「最近は気にして見てたけど……。あの子無意識に目が追ってしまうように……茉莉の姿を見てたよ」

「そう……なの?」

「そう感じはしたけど……」


 そうは言っても、と皐月ちゃんは続ける。


「男と女の世界は、お互いの想いだけでは語れないものね」


 経験豊富な皐月ちゃんが恋愛を語ると、言葉に深みを感じる。


「どっちが正しいとか、そういう括りでもなくて。伝えない言葉一つだけで、関係はどうにでも変わっていく」

「……」


 経験の乏しすぎる私が考えたこともないようなことを言っていた。


 あれ、私はもしかしたら……。

 また、自分一人でものを考えようとしていたのかな……?


 知らないことを知ろうとしないで勝手に世界を閉ざす……そういうことはもう止めにしようと、あんなに思っていたのに。


「ありがとう……皐月ちゃん」

「え?」

「元気出た……!」

「そ、そう?」

「うん、そっか、私、失恋すらまだ出来ていないのかも」

「……茉莉」


 皐月ちゃんは私を真っすぐに見つめながら、私の手を握ると言った。


「話ならいつでも聞くから」

「うん……ありがとう」


 夕方のバイトまでに、瞼の腫れが少しでも引いてくれたらいいなと思う。










 バイトは、今日は皐月ちゃんと一緒のレジ打ちや在庫整理が組まれていたから、白井くんとは点呼の時に顔を合わせただけだった。彼はじいっと私を見つめていたけれど、私は彼に近寄らなかった。避けるつもりではなかったけれど、まだ動揺してしまいそうだから。


 バイトが終わると、今日は白井くんの歓迎会。

 近くのビルの居酒屋に向かう。白井くんは女の子たちの集団に囲まれてしまっているみたい。彼の周りは賑やかだ。

 私は皐月ちゃんや他の先輩に話しかけられながら道を歩いた。


 居酒屋でも、白井くんは遠くの席に座った。

 私と皐月ちゃんは、いつものように出来るだけ端っこの席を確保し、静かなひと時を過ごせるようにと目論んでいた。


 わいわいと、騒がしい時間が過ぎた。

 バイトの人たちと、映画のこととか、学校のこととか、面白おかしい話をする。飲み会は嫌いじゃない。もう二十歳になっているからお酒も飲める年になっているし、こういう場に来ることに慣れて来た気がする。


「……今観たい映画はなに?」


 隣の席に座る山田先輩にそう聞かれる。さっきまで四人くらいで同じ話をしていたのだけど、皐月ちゃんがトイレに行っている間にいつの間にか周りから人が居なくなっていた。


 私はというと、アルコールを普段より呑んでしまい多少テンションが高くなっていた。


「そうですね……SFシリーズの新作、米ドラマの監督が撮るそうじゃないですか?あれを早くみたいなぁって思ってます」


 好きな映画の話題を私はにこにこと答えた。


「あーあれ気になるよね。俺も早く観たいと思ってるけど……もっと、今やってるやつだと何が観たい?」

「今ですか……?」

「そう、今観たいのがあったら良かったら」

「私」

「ん?」

「今観たい映画は、もう観ちゃったんです……」


 あの日白井くんと行った映画館は凄く楽しかった。

 思い出すだけで胸がズキリと痛む。


「すごく……面白かったんです」


 じわりと視界が歪む。あの日私は彼の気持ちを誤解したまま、彼に恋をした。

 ただ楽しくて、幸せな時間を過ごした。


「うぇ……」

「え?草壁さん?あれ?まさかこれ全部飲んだの?」


 山田先輩は、私の席の前に並んでる中瓶を見つめてる。

 私は瞳に涙を浮かべて、俯く。


 お酒をここまでたくさん呑んでしまったのは、たぶん初めてだ。

 もう、酒の席だって慣れてたはずなのに、止まらなくなってしまった。


 どうして白井くんは側にいないんだろう。

 どうして私は彼に好きと言えないんだろう。

 どうして彼は、あんなにも心配そうな顔をして私を見つめてくれたんだろう。


 ――理屈ではなくてただ哀しかった。


 私が弱いから。何も伝えられない。女の子たちに言い返せない。こんな自分では嫌だと思っているのに。


「大丈夫?もう帰ろうか?送っていくよ」

「だい、じょぶ、です。ありがとうございます……すい、ません」


 つっぷしそうになっていた私を先輩が支えてくれる。なんだか頭もふらふらして来たけれど、もうすぐ皐月ちゃんが戻ってくる。店を出るまで付き添ってもらって、タクシーを拾って帰ってもいい。


 すると突然、フロアがざわついた。顔を上げると、白井くんが座席から立ち上がっていた。

 凝視するようにこちらを見つめている。

 私を見つめたまま彼がこちらに歩いて来る。山田先輩もびっくりするように白井くんを見つめている。

 慌てるように彼の隣の席に座っていた女の子たちが追いかけてきて、白井くんに話しかけた。


「白井くん……」

「どうしたの?」

「席もどろ?」


 けれど白井くんは返事をしなくて、女の子の一人が彼の腕を掴むと、白井くんは反射的に腕を振り払った。


「……触るな」


 低く冷たい声が響いて来て、それが白井くんの声だと初め分からなかった。

 女の子たちの顔が蒼白になる。


 白井くんはすぐに……自分の腕を見つめてから、驚いたように女の子を見つめた。


「……すいません。俺……なんだか具合が悪くなったみたいで」

「そうなんだ?」

「大丈夫?」

「今日は帰ります……皆さんありがとうございました」


 柔和な笑みで微笑むと、女の子たちもほっとしたような表情になり、その場の空気も和らいだ。


 白井くんはそうして私の側に歩いて来ると跪いた。


「先輩……帰りましょう」


 和らいだ空気が、また凍った。

 白井くんは山田先輩に気遣うように声を掛けた。


「具合が悪そうなので……俺たち先に帰ります」

「ああ。良かったら俺も送っていくよ」

「大丈夫です。皐月先輩と送りますから」


 白井くんがにっこりと微笑んで答えると、先輩は言い返せないようだった。


(……?)


 回らない頭で考える。

 酔ったから、白井くんと一緒に帰る……?


(なんで?)


 白井くんに手を引かれて立ち上がると、ふらついてしまい、彼が体を支えてくれる。


「あ、あの山田……先輩……ごめんなさい、迷惑掛けて」

「いや、大丈夫だよ。気を付けてね」


 先輩にお詫びをした後に、白井くんを見上げる。


「ん……あの、皐月ちゃん……は?」


 どこにいるんだろう?


「大丈夫です、廊下にいますよ」


 廊下の方を見ると、確かに皐月ちゃんは呆然とするようにこちらを見ていた。

 皐月ちゃんも帰り支度をして、私たちはお先に失礼させてもらった。


 三人で少しだけ一緒に歩いたのだけど、駐輪場のある場所で皐月ちゃんに小声で聞かれた。


「本当に付いて行かなくていいの?」

「……うん」

「がんばれ」

「うん」


 そうして、私は白井くんに送って貰うことになった。








 外は冷たい空気が頬を撫でてとても気持ちが良かった。

 私の体調を心配してくれていたけれど、少しだけ頭が冴えて来たような気がしていた。


 少しだけベンチで休んで、買ってもらった水を飲んだ後に時間も遅いので帰ることにした。


 私たちは帰り道、ほとんどしゃべらなかった。

 駅まで歩いて電車に乗る。いつものように最寄り駅まで一緒に乗って……そうして私の家まで送って貰う。


 彼はうちからは徒歩30分ほどで歩いて帰れるそう。

 黙って歩いていたら、道のりはあっという間に感じた。

 着いてしまったアパートの階段の前で彼は言った。


「それじゃ……先輩。また明日」


 彼は私の目を見なかった。

 私が……おかしな態度を取っていたから、避けられてしまったんだって思い当たる。


「白井くん……」

「はい?」

「昨日は……ごめんね。今日も……ありがとう」

「いえ……全然」


 そう言ってくれるけれど、やっぱり目が合わない。


「……嫌になったよね」

「……はい?」

「親切にしてくれたのに……お礼も私はちゃんと言えなかったから」

「……」


 白井くんは一瞬目をまんまるにして私を見つめる。

 そうして口を大きく開けると、何かを言おうとしてから……片手で口を覆った。


「……違います」


 少しの時間を空けてそう言った。


「俺……恥ずかしくて」

「え?」

「思ってることそのまま言うと、お前の言葉はむきだしの刃みたいだって……昔馴染みに言われて……気を付けてたんですが。さっきは、抑えられなくて」


 白井くんの頬が、だんだんと赤く染まっていく。


「子供っぽいことして、俺……恥ずかしくて」


 少し顔を顰めるようにして、握った片手を口に当てるようにしながら、彼は絞り出すように言葉を紡ぐ。


 感情を露わにしている白井くんを見たのは初めての気がした。


 その姿に、私の身体が熱くなる。

 血が駆け巡っていくように、私の全身が彼の一挙一動から目が離せなくて、心が支配されていく。


 ああ……好きだって思う。

 私は、彼がどうしようもなく好きなんだって。


「白井くん……」

「……」

「私の所に来てくれてありがとう」


 今日も、そしてバイト先にも、夢の中にも。


「いつもいつも、私を助けてくれてありがとう」

「……」

「私……白井くんに話したいことがあります」


 けれどそれは、ご近所さんに丸聞こえのここで話せることでもないように思えた。


「時間が大丈夫だったら、少しうちに寄っていかない?」


 私の言葉に、白井くんが表情を固まらせていた。

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