第7話 ハロウィンの夜

「茉莉……なにそれ?」


 お昼の大学のカフェテリアで、皐月ちゃんが言った。

 私はかけているグラサンを少し持ち上げると、裸眼で皐月ちゃんを見つめる。


「視界をなんとか遮ろうかと……?」


 ハロウィン当日の大学は、仮装衣装を持ち込んでいる人も少なくなかった。油断すると目に飛び込んで来てしまうのだ。


「……大丈夫?」

「授業中は外しているから怒られないよ」

「そうじゃなくて……帰れる?送って行こうか?」

「まだ明るいから平気」


 そう怖いのはいつも夜だ。


 例えば昼間、ドン〇で売っている仮装グッズを見ても、可愛らしい子供たちの仮装衣装を見ても怖くはならない。

 明るい場所では、そう言うものだと思って見ているからかもしれない。


 暗い場所で……風景に同化するように、遠目では本物だか偽物だか見分けが付かなくなってしまいそうな瞬間が怖い。


 頭では仮装だと分かっているのに、なんでなんだろう。

 昨日、白井くんが何か言っていたような気がするけれど……。


「なにかあったら連絡して」

「うん……ありがとう」


 そう言えば白井くんも心配してくれていたな。

 気にしてくれているかもしれないから、家に帰ったら連絡をしてみよう。







 授業が終わった後は、コンビニにも寄らずにまっすぐに家に帰った。

 夜の間テレビを点けず、ネットにも繋げなければ、ハロウィンの情報すら入って来ないだろう。


 家に帰って一安心すると、スマホにメッセが来ているのに気が付いた。

 見ると、白井くんからだ。


『先輩、無事に一日過ごせましたか?俺はこれからバイトです』


 気遣ってくれていることが嬉しくて笑ってしまう。

 早速返信を送った。


『もう帰って来ました。今日はカボチャの煮物を作ります』


 すぐに返事が来た。


『カボチャは怖くないんですか?』

『怖くないよ。この間安かったから買っておいたの……例の激安スーパーで』

『俺も、食べたいです』

『えっと明日、持って行こうか?』

『良かったら、是非』


 休憩時間にお弁当を持ち込んで食べている人もいるので、食べ物を持って行くのは問題ないと思う。

 でもそれを気になる異性に渡すとなると、ちょっと緊張するなぁ……。


『バイト頑張ってね』

『ありがとうございます』


 その後かぼちゃと格闘して一仕事終えると、気が付いたら仕事中の白井くんからまたメッセが来ていた。


『……休憩時間です。撮られました』


(……!?)


 写真付きで送られてきたメッセージを見て、私はスマホを落としそうになった。


 整った顔立ちの白井くんの、あのふわふわした髪の上に……猫耳カチューシャが乗せられている。

 これはきっと私が先日着けたやつと一緒。

 白井くんは下手したら私よりも頭が小さいかもしれないので、着けても問題がないんだろうけど……。


 そう言う問題ではなくって、びっくりするくらい似合ってる。

 柔らかそうな髪に猫耳がしっくりとくる。


『可愛い~~~~~~~』


 と送ってしまいそうになってはっとする。

 これはきっと……男性に言っていい言葉じゃないよね?


『似合ってる……ね?』

『言葉を選んでませんか?』

『そんなことないよ』


 なんでもないやり取りをしているうちに、白井くんの休憩時間が終わってしまった。


(……楽しいな)


 そんなことを思いながら、ぼんやりと送ってくれた写真を眺める。


 他愛もない話をしながら、お互いを気に掛けて一日を過ごすこと。

 こういうことを、恋人がいる人たちは、毎日しているのかな……。


 友達とするやりとりと似てるけど、でも少し違うのを感じる。


(……嬉しいって気持ちがいっぱい溢れて来る)


 彼に気に掛けてもらえるのは、きっと、特別に嬉しいこと。

 そう感じている自分に気付いて行く。


 お姉ちゃんにぽやぽやしてるって言われても仕方ないなって……今は本当に思う。


 世界を閉じるようにして、私は、知らない世界をそのままにして生きてた。

 知らない気持ちを知って行く。

 私の世界を広げてくれたのは……間違いなく、白井くんの存在なんだろうって感じてる。










 いつの間にか、眠ってしまっていた。


 そこはいつもの夢の中だった。


 ――へんなの、と思う。

 普通夢の中で夢を見ているだなんて思わないものなのに。


 クスクスと笑っていると、後ろから声が掛けられた。振り向くと、黒い小さな塊が飛んでいる。


「あんた……探したわよ」

「蝙蝠さん……」


 光を振りまきながら空を飛んでいる、小さな私を追い掛けるようにして飛んでいたのは、先日の蝙蝠だ。


「あなたも狼もいつも同じことを言うのね……」


 私を探していたって。

 私は気ままに飛んでいるだけなのに。


「のんきねぇ……あんたは」


 はぁ、とため息をつくようにして言われてしまう。


「付いておいでなさい。狼が来るまで、案内してあげるから」

「案内?」


 どこに、と聞く間もなく夜空を蝙蝠が飛んでいく。後ろから追いかけると、私の姿を確認した蝙蝠は飛ぶ速度を上げていく。


 細い月が見えた。

 おぼろげな月の輝く空は、いつもよりも儚げに霞んで見えるような気がした。


「今日はみんな居るのよ」

「居る……?」

「見えないの?」


 そう言われて空を見渡すと、私と蝙蝠以外にも無数の何かが飛び回っているのが見えて来た。


 大きな形をしたものも、私より小さな形をしたものもいる。

 昆虫のようなものから、人型のもの、大きな鳥型の……まるでモンスターのような形をしたものまで。


「……こんなに居たの?」

「普段は、いないわよ。今日は特別。夢を見なくなったものも、みんな呼ばれるように集まってしまうの」

「呼ばれる……?」


 そう言えば、私は毎晩呼ばれるようにこの不思議な夢を見ているような気がする。


「地上にも凄いわよ」


 蝙蝠と一緒に眼下を見ると、無数の動物たちがうごめいているようだった。よく見ると狼と同じ種族も多い。彼の仲間がたくさんいるのだろう。


「……本当ね」

「なんで笑ってるの。マイペースねぇ」


 呆れたような口調で言う蝙蝠の声は、それでも少し楽しそうに聞こえた。


「付いて来なさい」

「ええ」


 蝙蝠に連れられてしばらくの間飛び続けると、いつしか森を越え山を越え海に辿り着いていた。

 この夢の中で、森から出たことも初めてだった。


 夢の中なのに潮風の匂いを感じた。

 海の中にも、たくさんの何かが居た。

 下半身だけ魚のもの、もしくは逆に上半身だけ魚のもの。大きなサメのような生き物、カニのような生き物……。

 彼らは自然の風景の中に溶け込むように、生き生きと楽しそうに、笑い合っている。

 波間に月の光が反射し煌めく。


 蝙蝠は人型に姿を変えると、砂浜を音を鳴らして歩き出した。


「綺麗ね……」


 私の呟きに、人型になった蝙蝠が驚くように言った。


「怖くないの……?」

「え?なぜ?」

「ううん……いいのよ」


 気にする必要なかったのね、と意味の分からないことを蝙蝠は言っていた。


「怖くないわ。だって夢だもの」


 私の言葉に、蝙蝠がジロジロと私を見つめて来た。


「あんた……自分のことを知っている?」

「自分のこと?」

「そう、蝶型のこと……」

「蝶型……?」


 首を傾げている私を見て、蝙蝠が言う。


「そう、分からないのね……」

「私は何を分かっていないの……?」


 思えば狼も、いつも何かを言いかけて諦めるように黙り込んでしまっていた気がする。


「あの子が丁度、時間切れの子ね」


 蝙蝠の視線の先を追うと、岩場に腰掛けた下半身が魚の美しい女性がいた……人魚なのだろう。

 彼女は沈みかけている月を見つめていた。

 潮風に虹色に輝く髪の毛を揺らすとても美しい生き物。下半身も同じように輝く鱗に覆われている。


「あの子は、王子様を待っているの。ずっとずっと、居もしない人を待ってるの」

「王子様?」

「王子様は、比喩よ。夢見るように……待っていれば現れる、理想の人を求めてる」

「……」

「ただの本能なの、あの子の種族は、大昔そういう生き物だったから。雄が雌を追い掛ける種族。雌は待っているだけで良かった」


 番を待っていると言っていた狼のことを思い出した。

 似たような話……なのかな。


「でも……もうそれでは、だめなの。あたしたちは変わってしまっているの」


 瞳を逸らさずにまっすぐに月を見つめる彼女は、確かに恋焦がれる何かを求めている女性の姿のようにも思えた。


「変わらなくちゃ、生きてはいけないの」

「……変わる?」


 私がそう呟いたとき、人魚が突然光輝き出した。


 あっ――と思っている私の前で、人魚の全身が突然、虹色の輝く泡に包まれるようにして形を崩した。そしてその泡は少しずつ波に飲まれ消えていく。人魚の姿を欠片も残すことなく――。


「なに……」


 驚きに目を瞠っていると、光の泡は波を輝かせながら、次第に光を失うように、消えて言った。


 蝙蝠は苦しそうに顔を背けている。


「たくさん見送って来たわ」

「どういうことなの……?」

「毎日……消えていくのよ、私たち古き生き物は」

「消える?」

「そうよ。適応出来なければ、消えてしまうしかないの」

「……」


 月が沈む。

 光の泡が消えた暗い海に、他の生き物たちが楽しそうに笑っている。


 蝙蝠は、長い話を私にしてくれた。









 遥かな昔に、二つの世界が重なり合う瞬間があったのだという。


 『二つの世界』


 その言葉からして、ファンタジーだ。

 私たちが知っている地球とは別にもう一つ、対の鏡のように同じ場所に存在していた世界があったのだと言う。


 違う『力』を源にした二つの世界は、同じ場所に合っても全くの別物……。

 重なるように同じ場所に存在していたとしても、お互いがお互いの存在を知る事すらない、そんな存在。


 だけれどある日突然、本来重なるはずの無かったはずの二つの世界が『ピタリと重なった』。


 それはまるで、ハロウィンの夜に生者と死者の世界の境目が薄くなるのと似ていたのだと言う。

 別々に存在していたはずの二つの世界はある日境目を失い……そして『重なった』のだ。


「もともと、両方が同じ場所に存在して、バランスを取り合っていたと言われているわ」


 蝙蝠は言う。同じ場所の表と裏として、別々の存在としてあったけれど。


 地球側の生き物が栄え、爆発的に増えた力の強さに引きずられるように、裏の……もう一つの世界のことを蝙蝠は『異界』と言ったけれど、異界の方が吸収されるように地球の元へ引っ張られてきたのだと言う。


「一方の世界の力が強くなりすぎて、天秤が崩れた。気付くこともなかっただけで、強い方が生き残る仕組みだったのかもしれない。力弱い世界は淘汰されるように消える運命だったのかもしれない。けれど、異界の民のいくらかは生き残った」


 もう一つの世界……この不思議な生き物たちがいたはずの異界の魂たちは、地球に引っ張られ、その時共鳴する生き物の体の中に溶け込むように、命の輪の中に入り込んだのだと言う。

 もともと表と裏の、近しい存在。魂の共鳴する対が居たのだろうと。けれどそれは若い魂だけだったと言われているそうだ。年老いた魂は溶け込むことが叶わなかったと。


「遥かな昔のことだから、語り継がれていることしか分からないけど、あたしたちは本当だろうって本能で思ってる。今いるあたしたちは、ただ、その夢の残像を見続けてるの」

「夢の残像……」


 そう、と蝙蝠は言う。


「ここは、異界の民の残り人たちが作り上げた場所。異界ですらない――あたしたちの魂が無意識に恋焦がれている場所を願い作っただけの、ただの夢の中――」


 夢で見る世界は、本当に夢の中なのだと――

 不思議なことを蝙蝠は言う。


「あたしたちは異界の民でも、ただの人間でもない。両方の魂を持っている、半端ものなの」

「そう……」


 その不思議な話を、なんだか納得するように聞いていた。


(懐かしいって、ずっと思っていた)


 目覚めても、夢の中に還りたいとどこかで思っていた気もする。

 この夢の中は、ずっといたいとすら思えてくるのだ。


「驚かないのね?」

「そうね」

「あんたは……いつも楽しそうに笑ってるわねぇ」


 くすくすと笑い声をあげる私を、蝙蝠は呆れるように笑う。


「だって、分かって嬉しいわ」

「そう」

「……人魚はどうして消えたの?」


 私の問いに蝙蝠が答える。


「夢から醒めなかったの。異界に魂が引きずられた。人に成れなかったの。心も体も成熟する年頃になっても、人に同化できない異界の魂は力尽きるように消えてしまう。消えても、死ぬわけじゃないわ。……すぐにはね」

「すぐには?」

「そう。異界の魂は……無意識に、この世界で心を満たして生きているけれど……この世界でひっそりと満たして来たはずの心の半分を失った半端ものは……徐々に体と心を壊して、大抵はそう長くなく死ぬわ。まぁ、細く長く生きる子もいるみたいだけど」

「……」


 目の前で泡と消えた、美しい人魚は最後まで月を見つめていた。


「……私も、死ぬの?」

「どうかしら」


 幾度も目を覚ませと、狼も蝙蝠も言っていたのだ。私を『可哀想』だと――。


 私は――異界に魂が引きずられている?

 でも、だとしたら、どうしたら夢から醒めることが出来るんだろう。

 そして、それはいつまでにしなくてはならないんだろう。


「夢から醒める方法はあるの?」


 私の台詞に、蝙蝠は少しだけ眉を下げて微笑む。


「あたしはもう行くから……狼に聞いてみるといいわ。あの、目覚めているくせに夢を見続けた頑固なロマンチストに」


 蝙蝠は私の背後を見つめていた。

 振り返るとそこには、人間の男の子がいた。


 夜空を背景にした浜辺に、背の高いスタイルの良い男の子が立っていた。

 ふわふわした髪の毛が潮風に揺れている。

 そうして、茶色の大きな瞳がまっすぐに私を見つめていた。


「……先輩」


 その声は、私の心をときめかす、聞きたかった声だ。


「白井くん……?」


 そう言った瞬間魔法が解けるように……小さな輝く体を私は失った。

 そうしてただの人になった。ごく普通の、私、草壁茉莉に。


 私は大学生だ。バイトに明け暮れている。自炊を頑張っていてかぼちゃの煮物を作ったばかり。平凡な子だ。


 全てをクリアに思い出していた。


 そうして今まで起こって来た全てを――思い浮かべる。


 蝶のような羽を生やし飛び回って来た夢の世界。

 狼との出会い。

 バイトに入って来た男の子。

 どうして誘われたのか分からないデート。


 蝙蝠が教えてくれたこと。

 今ここに現れた白井くん……。


 夢と現実が、一本の道であるかのように繋がって行くように思えた。


「先輩……」


 白井くんはもう一度私を呼ぶと、歩いて来る。

 目の前に立ち抱きしめるように両腕を伸ばしてきたけれど、その手を躊躇するように留めた。


「先輩……夢から醒めましたか?」

「……狼なの?」

「ええ」


 そうですよ、そう言うと、白井くんは目を瞑り頭を振る。

 すると、茶色の髪の毛の上に長い耳を生やした。


 突然ぴょこりと姿を現した柔らかそうなそれに、私は触れてみたくて思わず手を伸ばしてしまう。


「触って良いですよ」


 白井くんの声に促され、そのまま触れると、彼の耳がビクリと震える。

 柔らかくて……暖かい。


 そうして、心が持って行かれそうなほどに、幸福感が沸き上がる。

 触れると気持ちがよくて、もっと触れていたいと、思ってしまう。


 この知っている感触も、生きていることが伝わる温かさも……。

 夢と現実は一つのものなのだと、教えてくれていた。


「……気持ちがいいわ」

「先輩はずっとそう言ってましたね」


 彼が目を細めると、狼の目に似ている気がした。


「でも……全然、違う」


 口調も、話し方も、狼と白井くんのイメージは重なるようには思えなかった。


「先輩も違いますよ」

「そうなの?」

「ええ……そんなにいつも笑ってるわけじゃないでしょう」


 確かに夢の中の私は何が楽しいのかずっと笑っていた気がする。


「心の中から外に出さないもう一人の自分……異界の民でなくても、みんなが持ってるものだと思いませんか?」

「……うん」


 急に皐月ちゃんを思い出す。大人っぽい容姿でカッコイイ格好をしている彼女は、実は女の子っぽいファンシーグッズが大好きなのだ。人には分からない部分は誰にだってあるだろう。


「ふっ……」


 彼の耳を撫で続けていたら、白井くんが体を震わせ、笑った。


「くすぐったいです。先輩……」


 そう言うと、そっと私の腰を抱きしめて来た。

 すっぽりと彼の胸の中に抱え込まれてしまう。

 それでも私は目の前の茶色の瞳から目を離せずにいた。


「今夜は……俺たちの魂も重なり合える日です」

「重なる?」

「そうです……。人の形にも、もう一つの形にも、自在に変化出来ます。夢から醒めても……だから、ハロウィンの夜は危険なんですよ。地球にも狼男がいるかもしれません」

「え……?」


 危険と言う言葉にぞくりと体を震わせると、白井くん楽しそうに笑う。


「からかったの?」

「そうではありませんが……頼っては欲しいですね」


 それはデートの日に白井くんが言った台詞ととてもよく似ていた。


「ねぇ白井くん……」

「はい?」


 暗い夜の浜辺に抱き合うように立つ私たちを、波の音が包み込む。

 遠くには、楽しそうに笑い合う異界の民たちの声が聞こえる。


(私は――夢から醒めた)


 そう、はっきりと思った。


 異界のことを知ったからじゃない。

 死んでしまう可能性を理解したからじゃない。


(私は……恋という夢から、醒めた)


 夢の中で夢から醒めた私は、『私』の言葉を彼に告げなくてはいけない。


 白井くんは言葉の続きを待つように、穏やかな瞳で私を見つめてくれていた。


「白井くん……どうしてデートに誘ってくれたの?」

「……え?」

「どうして、バイトを始めたの?」

「それは、先輩を探して」

「どうして……どうして、私に近づいたの?」

「先輩……?」


 彼の腕を振り払い、その胸の中から逃げるように身を引いた。


「私が夢から醒めないと……死んでしまうから?」

「先輩」

「私がっ……!」


 叫んだ私を、白井くんが目を見開いて見つめた。


「私が夢を見るように生きていて……死んでしまいそうだったから?」


 20年も生きて来たのに、私は確かに、ぼんやりとしか生きれていなかったんだろう。


 異界のことなんて知らなかった。半端ものだとか、同化しなくちゃいけないとか、そんなこともまだよく分からない。


 だけど……夢見るように……逃避するように……きっと生きてた。

 知らないことばかりの半端もの。


 だから知らなかった。

 こんなにも、感情が動かされると、心が割れてしまいそうに痛いだなんて。


 夢を見るように生きていたなんて、もうちっとも思えない。

 痛くて痛くて、苦しくて、死んでしまいそうだ。


 この痛みは、確かに『私』だけが持つもの。


 まるで生きている証拠だ。

 私は生きてる。

 きっと、もう夢からだって醒めている。

 夢の記憶はずっと覚えているし、同化しないと死んじゃうって理解もした。

 きっと今なら、古き民として人知れず消えていくことなんてない――


「う、うぇ……」


 変な声と同時に、両目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。

 泣いてる場合じゃないのに、お礼を言わなくちゃいけないのに、感情が高ぶって上手く話せない。


「先輩……?」


 戸惑うように白井くんが手を伸ばしてきたけれど、私は逃れるように後ずさった。


「ごめんなさい……」


 狼は私を食べてなんてしまわなかった。

 反対に、生かしてくれようとしていた……。


 なのにそれがとても悲しい。優しさが、まるで心に絶望を生み出すかのように沁みわたっていく。


「白井くん……ありがとう。私、もう、大丈夫だから……。私を探してくれて……ありがとうっ」

「……先輩?」


 困ったような表情で立ち尽くす白井くんは、本当に優しい男の子だ。


「ごめんなさい……私……今は……うまく話せない……っ」

「……」

「ご、ごめんなさい……っ!」


 破れそうな心臓を感じながら、必死に言葉を紡いだ次の瞬間。






 ――私は夢から『醒めた』。


 そこは、電気が点いたままの、いつもの自分の部屋の中だった。

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