第2話 犬の映画はなんですか?


「……最近、どう?」


 大学のカフェテリアで、皐月ちゃんがおもむろに言った。


 皐月ちゃんは大学の科は違うのだけど、バイトに同期で一緒に入ってから仲良くなった子。


 バッチリと化粧をしてる皐月ちゃんは、ランチを食べているだけでも、遠くから男の子たちにチラチラと見られていた。

 背の高い、スタイルのとてもいい綺麗な女の子だ。


 痩せてるだけなら私もそうだけど、全体的にストンとした体型の私とは全然違って、言葉で表すなら、ボンキュッボンだ。


 茶色のサラサラとした長い髪をなびかせている。

 びっくりするくらい綺麗な顔立ちをしているのだけど、その目つきは鋭くて、なんと小学生の時についたあだ名は「姐さん」らしい。


 皐月ちゃんは食べ終わったランチプレートを少し横にずらすと、身を乗り出すように私に顔を近づけて来た。

 返事をしない私を見つめる、メイクを決めたその瞳からの目力が凄い……。


「ど、どう……とは?」


 たじろぐように私は言う。

 何というか想像は付くのだけど、踏み込んでいい話題なのかも分からなくて、つい曖昧に答えてしまう。


 すると皐月ちゃんが、言葉を選ぶように言った。


「もめてない?」

「も、もめて……ない?かな?」


 最後に疑問符をたくさん付けてしまった。


 もめる、というと、やっぱりバイトのことだよね。

 バイト先で数人の女の子からすれ違いざまに「……邪魔ね」などと言われたことがあるけれど、これはもめたうちにはいるのだろうか。


 そんな風にあからさまに何かを言われるようになったのは、白井くんが入って来てからだった。


「そう……まだ手を出して来てないのね」

「手……?」


 それは暴力沙汰とか、乱闘騒ぎとか、そういうバイオレンスな意味だろうか?


 首を傾げていると、皐月ちゃんは少しだけ、ふっと笑った。


「あの子も、メヒョウも」

「あの子……?え、メヒョウ?」


 メヒョウ……女豹?

 女の子たちを例えた言葉なのだと気付き、返事に困ってしまう。


 ふわふわキラキラ、なんだか良い匂いもする女の子たちのことを、皐月ちゃんは豹に例えたのだ。


 私の様子を窺うように見た皐月ちゃんは……「ふむ」と言ってから、椅子に座り直した。


「何かあったのね?」

「ちょっと、邪魔に思われているみたい」


 私が研修担当だからなのだけど、白井くんとはシフトも一緒だし、休憩時間も一緒だ。

 必然的にいつも一緒にいるのだから、彼女たちには目の上のたんこぶみたいな感じなのかも。


「気にすること、ないのにね」

「そう?」


 私の台詞に、皐月ちゃんが意外そうな表情をしていた。


「ん?」

「気にする必要があるから、気にしてるのかもよ」

「うん?」


 皐月ちゃんの言っている意味がよく分からない。

 すると皐月ちゃんは続けて言った。


「ヤツは……モテてるじゃん。どう見ても、学校でもモテてそう」

「ヤツ……」


 モテるヤツとは、奴だろう。年下の男の子。

 もう少し詳しく言うと、女の子みたいな顔立ちで、その辺で見たことがないくらい綺麗な顔をした子。


「人気があるみたいだけど、でも職場では、素直で覚えるのが早い、良い子だよね……?」


 そうとしか言いようがないのに、なぜだかまた最後に疑問符を付けてしまう。けれど皐月ちゃんは気にする風もなく、そうねと肯定するように頷いた。


「良い人っぽいね。礼儀正しいし、優しそうだし……一見」

「え……一見?」


 皐月ちゃんは「う~ん」と唸ってから、顔を上げて言った。


「私の野生の感が、あの子は危険だと訴えている」

「野生の感……?」


 突然何を言いだすのかと皐月ちゃんを見つめると、皐月ちゃんは視線を受けて柔らかく笑った。


「若い頃、修羅場くぐり抜けて来て戦ってきたやつらにああいうタイプが居たのよ」


 え……?修羅場?なんの話をしているの?皐月ちゃん若いよね?


「あ~そうじゃなくて……う~ん」


 皐月ちゃんは照れくさそうな顔をしたあとに、にこっと笑う。


「茉莉のこと、よく見ている気がするのよ」

「え?」

「気付いてない?」

「うん……」

「だからきっと、女たちが警戒している」


 ……バイト先の同僚の子たちを「女たち」とひとくくりにして語る皐月ちゃんはなんだかカッコいい。


 言いたいことは分からないでもない。

 昨日のバイトの帰りも、ロッカールームで女子たちから冷ややかな視線を投げかけられて心臓が痛くなったのだから。


「でも、さ……白井くんって」

「うん」

「誰にでも、きっと、自分を見てるって思わせるというか……勘違いさせる子だと思うから、気のせいだと思うんだ」

「……私は見られてると思ったことないわよ」

「そうなの?」


 ということは私は自意識過剰なのかもしれない……恥ずかしいな。


「ね。皐月ちゃん」

「ん?」

「去年のこと……も関係あるのかな」

「……そうかもね」


 去年のバイト先での出来事を、私はすごく久しぶりに口にした。


「……思い出させた?」

「……ううん」


 それはあっという間の出来事だった。

 あの時は勘違いではなくて、実際に先輩に好意をもたれて、告白もされたことがあったのだ。


 バイトに入ったときからお世話になった先輩。人としては好きだったけれど、付き合うことはピンと来なくて、その場で断ってしまった。けれどそれを見ていたんだろう誰かから噂が広がり、少しの間一部の女の子たちに避けられたことがあるのだ。


 その時の先輩もバイトの女の子たちに人気があったらしく、気にする子がいたみたい。

 先輩も就活ですぐに辞めて行ったし、避けていた子達も何人かは入れ替わって、もう忘れられているかと思ってた。でも、また似たような雰囲気になってしまった。


「茉莉……辛かったら言って?シフトもいつでも変わってあげるから」

「……ありがとう」


 皐月ちゃんは時々口が悪くて、バイト先でも敵を作りやすい方なのだけれど、私にはいつも、まっすぐに優しい言葉を伝えてくれる誠実な子だ。


「……大丈夫だよ」

「本当に?」

「うん。ありがとうね」


 笑顔を浮かべて皐月ちゃんを見つめると、やっと皐月ちゃんは笑う。


「良かった。なんだか元気なく見えたし」

「……うん。でも、バイトに行っても教えてるだけだし、なんにもないよ」

「……そうかな?」


 そう言うと皐月ちゃんは、また私をじっと見つめる。

 思ったより心配を掛けてるんだな、と思いながら私は笑って言う。


「向こうも私に全然興味ないと思うよ」


 いつも何を考えているのか分からない微笑みを浮かべている。

 それは誰に対しても変わらないものに思えた。


「んー……。でもさ、茉莉がイイと思うなら行った方が良いよ」

「……イイ?」

「男としてオッケーって、もし、思ったら」

「……ふへっ」


 お茶を吹き出しそうになる。

 三次元男子に興味を持つこともほとんどないのに、私ごときがあのイケメンに!?


「そんなのないよ!全然!!」

「そっか」


 皐月ちゃんは少し考える時間を置いてから言った。


「二人似てるなって思うところ、あったから」

「え?」

「なんか、空気?自分の世界を持ってそうなところ」

「……えぇっ」


 私もあんなに何を考えてるか分からないような空気を醸し出していると言うんだろうか。


 ……無くはないかも?

 たまに観たばかりの映画のことを思い出してぼーっとしてるし……。


 ちょっと我が身を省みてドキドキしていたら、皐月ちゃんはスマホの時間を確認して立ち上がった。


 皐月ちゃんのスマホケースは、押し花とキラキラした素材が埋め込まれているとても女の子らしいデザインだ。カッコイイ皐月ちゃんはいつも大人っぽい洋服を着ているけれど、実は可愛らしい小物が大好きで、彼女が喜ぶ女の子向けの雑貨屋をよく二人で巡っている。


「あんまり気にしないで。午後の授業行くね?またバイト先で」

「うん。また夕方」


 今日の夕方からのバイトは皐月ちゃんも同じ時間で入っていたはずだ。








 バイトの制服に着替えて控室に入ると、すらりと背の高い男の子の後ろ姿が見えた。


 彼の小さな頭の形だけでも、カッコイイ子なんだって感じさせる。

 茶色の髪がふわふわと揺れるように流れていて、制服を着た後ろ姿は、モデルのようにスタイルが良かった。


 物音に気付いた彼はゆっくりと振り返り、目が合うと微笑んだ。


「……先輩」

「白井くん今日も宜しくね」

「宜しくお願いします」


 挨拶をしている私たちの横を早番の男の子が通って行く。


「おつかれーす」

「お疲れさまー」

「お疲れ様です」


 男の子が部屋から出て行き扉が閉まると、白井くんはキョロっと部屋の中を見回した。つられて一緒に見てしまったのだけど、控室には今私たちしか居なかった。


 白井くんは一歩私に近づいて来て、体を屈めるようにして私に顔を近づけた。

 ふわふわの髪が揺れている。


「……先輩、俺のおススメのDVD持って来ました。帰りに渡したいんですけど、良いですか?」

「……え?」


 白井くんは、私の耳の側で低い声で喋っている。

 見上げると、切れ長の目がすぐ目の前で流れるように私を見ていて、距離の近さに動揺する。


「……え!?帰り?」

「今……持ってなくて。帰り同じ電車で帰るなら、その時にと」

「え、え、うん?」

「Blu-rayの方が良かったですか?」

「ううん。どっちでも大丈夫、だよ」

「じゃあ、帰りに……」

「あっはい……」


 流れるような会話に思わず返事をしてしまっていた。


(ん?あれ?これ良いのかな?)


 いや、良いか悪いかなら、駄目な方だと思う。

 偶然ですらなく何度も一緒に帰っていたら、女の子に敵視されても仕方がない理由になってしまう。


(で、でも)


 出来るなら彼との全部に距離を置きたいところなのだけど……。


(私が言ったんだ)


 好きなものを教えて欲しいって。


(……社交辞令じゃなかったんだね)


 なんとなく、その場だけの会話かなと思ってた。


 だから次の日に、こうしてわざわざ持って来てくれたのは、単純に嬉しい。

 それにもう続きがないと思ってた自分が恥ずかしい。


 にこにこと言ってくれる彼に、一緒に帰りたくないと伝えて嫌な気持ちにさせてしまうほど、距離を置きたいわけでもない。


 でも……だからと言って断れないなんて、断りたくないんだと言われても仕方がなくて。

 異性に今はまだ、興味を持てなくて。女の子たちの争いの中に飛び込むつもりもないのに。


(あれ、どうしたらいいのかな)


 ぐるぐると頭の中に思考を巡らせていると、いつの間にか皐月ちゃんや社員さんがやって来て点呼がはじまった。

 その日の研修は、余計なことを考えないようにと少し意識しながら、集中して取り込んだ。







 白井くんと一緒に休憩室に入ると、皐月ちゃんと後輩のサブカル系男子くんが居た。彼の名前は水野くんだ。


 テーブルを挟んで、私は皐月ちゃんの隣、白井くんは水野くんの隣の椅子に腰を下ろした。


 白井くんは休憩時間、誰かに呼ばれたり、女子の気配がするときにはふっとどこかに行ってしまうことがあるのだけど、そうじゃないときは大抵一緒に休憩室で過ごしていた。


「草壁さん今日は何を借りて帰るんですか?」


 水野くんに聞かれる。


 水野くんとはよく映画の話をする。古い映画の話も出来るバイト仲間は少なくて、他の人とは出来ないような話も出来るのはすごく楽しい。


「あ、水野くん」

「はい?」


 彼は染めてない黒髪の、けれど小ぎれいでセンスの良い服装をした男の子だ。皐月ちゃんと気が合うらしく良くしゃべっているのを見かける。


「犬の映画ってどんなのあるかなぁ?」

「犬ですか?」


 すると目の前で、職場のレンタルカタログを広げて見ていたはずの白井くんが視線を上げた。

 彼は少し考えるようにしてから、切れ長の瞳でじっと私を見つめ出した。


 例のごとく、ドキリとする。


 いつも白井くんは、私と仲が良い子たちが話しているときは、笑顔は絶やさないけれど会話には入ってこないのだけど、今は真顔で私を見つめている。


(なんだろう?)


 不思議に思いながらも、聞かれてることに答えた。


「うん。なんだか急に見たくなってしまったの。ふさふさの」

「ふさふさ?最近のだと……犬〇島とか?」

「僕のワン〇フル・〇イフとか?」


 皐月ちゃんも会話に入って来る。


「好きだけど……もっと種類が違うのあるかな、大きくてふさふさで……あ、でもシェパードは近い気もするような」

「名犬〇ッシー?」

「南極〇語」

「あ、樺太犬、いいかも……」


 あの大きさとふさふさ感はなんだか気になる。


「なんならライオン・〇〇〇一緒に観に行く?」

「……ライオンは、ネコ科です」


 珍しく、白井くんも会話に加わって来た。


 白井くんのポツリと言った言葉に、ぷっと皐月ちゃんが笑うと水野くんも笑う。


「……モンスター映画は駄目ですか?」


 白井くんが視線を伏せるようにして控えめな口調で言った。


「モンスター?」

「ああ、そう言う選択肢もあるね。モンスターのふさふさ」


 水野くんは頷いたけれど、私は言葉に詰まっていた。


「わ、私、モンスターはちょっと……ホラーとかだよね?」


 助けを求めるように皐月ちゃんを見つめると、私の代わりに答えてくれた。


「茉莉、怖いの駄目よね」


 うう、そうなのだ。

 どうしてだか、ファンタジーは好きなのに、オカルト要素が入ると途端に怖くなるのだ。

 出会った頃皐月ちゃんがホラー映画を流したとき本気で泣いたし。


「……そうですか」

「みんなありがとう。後で探してみるね」


 今日借りて帰る映画がすんなり決まりそうで私はお礼を言った。


「茉莉そう言えば今年は……」


 皐月ちゃんが思い出したように言う。


 その台詞だけで分かってしまう。皐月ちゃんは今の会話で去年のことを思い出したのだろう。

 去年、ハロウィン当日のバイトの帰り道、仮装した道行く人たちに私が大層怯えていたこと。


「……今年は、ハロウィン当日、お休みにしました」


 私の台詞にみんなが驚いた顔をする。


「え、そんなにですか?」

「そうだったんだ」

「うん……なんかね、年々仮装が本格的になっていくじゃない?まるで特殊メイクのような出来で……。本当に怪我してるのかなってびっくりしちゃうくらいの」

「そうね」

「分かりますが」

「そういうのにドキドキしてしまって……。可愛い仮装は怖くないんだけど」


 水野くんと皐月ちゃんに少しだけ苦笑しながら返事をすると、白井くんが私をじっと見つめていることに気が付いた。


 少しだけ驚いたように目を見開いて、まっすぐに私を見つめている。

 不思議に思って見つめ返すと、はっとしたような表情をした後に視線を外されてしまった。


(……怖がり過ぎだと、呆れられてしまったのかな?)












 バイトからの帰り道、白井くんとは待ち合わせの場所を決めていなかったから、どこで会えるのかな、と探してしまった。そう、結局何も思いつかず、何も言い出せなかったのだ。


 皐月ちゃんは自転車なので先に帰ってしまっている。


 白井くんは職場にはもう居なくて、ビルを出ても見当たらない。駅の前にも居なくて、もしかしてホームかな、と思う。


 ……約束をしていたのに、連絡先も聞かなかった。

 近寄るのが怖くて、聞きたくないって想いが強かったけれど、それは私の勝手な気持ちで、すれ違いになるくらいなら聞いた方が良かったなと思う。


 結局、ホームに着いたところで、彼はホームの椅子に座っていた。

 片耳にイヤホンを差して、何かを聴いているみたい。


 茶色のブルゾンを羽織っていた。

 ふわふわの髪が風に揺れている。少し顔を上げて、瞳は空に向いていた。


 一瞬、胸が切なくなった。

 どうしてだろうかと考えて、それは彼の表情のせいかも知れないと思う。

 目を細めるようにして食い入るように空を見つめていた。


 視線の方へ顔を上げて見ると、星空が広がっている。


 どうしてだか私は、月がそこにあるのではないかと思ってしまった。

 夕方沈んでいく月を見たから、上っている訳がないのに。


 バイトに入る前に見たのは、新月がほど近い日の細い細い月。雲間に消えて無くなりそうな、おぼろげな月だった。


「白井くん」


 声を掛けると、ゆっくりと顔を上げた彼ははにかむように微笑んだ。


「……先輩」


 椅子から立ち上がり、私の元へ歩いてくると、小さな紙袋を見せてくれた。


「持って……来たんですけど、今日は持って帰ろうかなと」

「……え?」


 驚いて彼を見上げると、白井くんは困ったように笑う。


「……半分、ホラー映画だから……」

「……」


 それは見れる気がしない。

 でもそうは言っても、興味はあるのだ。映画好きとして通ってみたいとも思うのだ。


「か、借りる!」


 奪うように、ぱしっと紙袋を手に持つと、私は言った。


「見てみたいし、勧めてくれたのも興味あるし、観れるように、な、なりたいし……」


 言ってる間に既に涙目になって来ている。


 少し呆気に取られたように私を見下ろしていた白井くんは、眉を下げて微笑んだ。

 笑いを堪えているような顔をしている。


「……ふっ」


 堪え切れなかったようだ。顔を背けて吹き出した。


「か、貸してください……」

「泣きながら言わないでください。いじめてるみたいなんで……」

「泣いてないから」

「そうですか?」


 そうこうしているうちに電車が来て、私たちは車内に乗り込む。

 夜遅い時間の車内でも、ラッシュ時ほどじゃなくても電車は混みあっている。

 私たちは小声で、少しだけ顔を近づけて話した。


「じゃあ……半分だけ、貸しますね」

「半分?」


 白井くんは紙袋から二枚のDVDケースをすっと抜くと、自分のトートバッグにしまった。


「はい。今日は怖くない映画だけ」

「えぇ……」


 覚悟を決めた今となっては、借りられないのがなんだか寂しく思えてしまう。


「残念だなぁ……」

「また、今度。一人で観なくてもいい時に貸しますよ」

「うん?」

「誰かと一緒に観たら怖さも薄れるかもしれません」

「あ、そうだね。皐月ちゃんを呼んで」

「……俺も、一緒に観てもいいですよ」


 白井くんの言葉の意味を反芻するように、私は体を固まらせた。


 ――『俺も、一緒に観てもいいですよ』


 顔を上げると、微笑みを浮かべた彼が、まっすぐに私を見下ろしていた。


「先輩」


 彼のその言葉は、間違いなく私のことを呼んでいて、そうして私だけを見つめていた。


「俺は、先輩と、二人で観たいと思ってます」


 その台詞は、決して皆で観ようだとか、皐月ちゃんを挟んでとか、そう言う意味ではないのだと言っていた。


「……ぅえっ!?」


 驚き過ぎて変な声が出て来た。たじろいだ拍子に後ろのドアにぶつかってしまう。

 慌てて振り返ったついでに白井くんから視線を外し、そのままどうしたらいいのか分からず電車の床を凝視し続けた。


 心臓が早鐘を打っている。ときめきではなく驚きでだ。

 顔に熱が集まっているのは、きっと焦りから。

 なんだか苦しいのは、たぶん、何かが怖いからだ。


 そう、今、どうしようもなく怖いと思っている。


「……先輩」


 呼ばれてしまい、仕方なく複雑な気持ちのまま顔を上げる。すると穏やかな表情をした白井くんが私を見ていた。


「また、明後日。お疲れ様です」

「……お疲れ様です」


 次の私たちの出勤日は明後日。

 研修期間中、教育担当の私と同じ日程が組まれている。


 軽く手を振って、白井くんが開いた電車のドアから降りて行く。

 いつの間にか彼の最寄駅まで着いていた。私の降りる駅も、もう次の駅だ。


 音を立ててドアが閉まってからも、降りたホームから白井くんは立ち止まってじっと私を見つめていた。


 私は、電車が動き出し彼が見えなくなるまで、その姿から目を離せなかった。


 一駅頭が真っ白になった思いで過ごし、自分の駅で降りて外の空気を吸い込んでから、私はやっと、はぁっと深いため息をついた。

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