二十八 庶くば(二)
懐かしい
そこで港に浮かぶ真っ赤な遣唐使船四船を見たとき、やっと日本へ帰るのだという実感が湧いてきた。
海風を吸い込むと、鼻の中に生臭い潮の匂いが広がってむせそうになった。唾を飲み込むと、なぜかあの唐人塚の土の味が蘇ってきた。
わたしは背筋が冷たくなった。
おれの中の唐人が、日本へ帰るなと警告しているのか?
いやいや、真成が言っていた。唐人塚の土は、
第一船に
わたしは安心した。第一船は天平の遣唐大使が乗る一番造りのしっかりした安全な船だったからだ。
わたしは第四船に乗った。第一船が一番安全なら、第四船はやはり安全性は四番目だった。
その第四船の指揮を執る判官
養年富はわたしの主人である
「ともに井上真成どのの魂を日本に持ち帰ろう!」
と、彼の方からわたしを励ましてくれた。
蘇州で帰国準備が進む中、わたしはある夜真備に呼び出された。
わたしが宿舎の彼の部屋に行くと、彼はわたしに卓の席につくように言い酒を勧めた。
真備はもう飲んでいたようで、少し酔っていた。
わたしは彼の様子にびっくりしたが、かしこまって杯を受け取った。
真備はぽつりぽつりと話し出した。
「
「はい、〝
「そうだ、そう言った。……あれはさらに昔のことだ。できたばかりの平城京の大学に、井上真成が入学してきた。わたしと同部屋になった。いつもわたしににこにこと話しかけてくれた。平城京のことを知りたいという彼を、休みの日に家に連れて帰った。わたしの母は驚いた。なぜならわたしが友を家に連れて来たことなど、それまで一度も無かったからだ。備中の氏族出身で、常に田舎者と馬鹿にされていたわたしには、大学内に親しい友はいなかった。母はとっさに彼の前に跪いた。そして図々しくも母親としての真心から、自分の息子と兄弟のように仲良くして欲しいと彼に頭を下げた。彼は満面の笑みではいと答え、すぐにわたしを兄さまと呼び始めた。そのときだ。何があってもこの笑顔を守ろうと心に決めたのは」
真備は杯の中の酒をじっと見つめた。
「遣唐使派遣の噂が平城京に出たとき、わたしはもう役人だった。留学生になりたかったが、無理だと諦めていた。そこへ真成がやって来てわたしに言った。自分は留学生に志願した、兄さまは行かないのかと。一緒に行こうと。彼はまたあの美しい笑顔をわたしに見せた。わたしはうなずいた」
真備は鼻をすすった。
「あれから二十年近くの歳月が流れた。彼は笑顔で西域へと旅立って行った。わたしは彼の笑顔を守りきったのだと、いまはそう自分を満足させるしかない。もう二度とあの笑顔を見ることができないのかもしれないと思いつつも」
真備が瞬きをした。彼の目から一つ涙がこぼれて、杯の中にぽとりと落ちた。
「おまえもよくやった。おまえのおかげで真成だけでなく、わたしも笑顔の多い日々を過ごせたように思う。おまえを傔従に選んでよかった。礼を言う」
真備はわたしに手を差し出した。
わたしは両手でその手を握りしめた。
「ありがとうございます! ありがとうございます! 感謝いたしますのは、わたしの方です。わたしをあなたさまの傔従に選んでくださり、本当にありがとうございます。ああ、どうか、日本に帰りましても、これからもわたしにあなたさまと顔を会わせる機会を作ってくださいませ。どうか、どうか、お願いでございます!」
泣き虫真海のわたしはもうぼろぼろ泣いていた。
真備はうなずいた。
「もちろんだ」
「ありがとうございます! ああ、嬉しい……」
真備はひとつ咳払いをして、
「褒美の品を渡したい」
わたしはびっくりして、
「いえ、そんな! いまのお言葉だけで十分でございます」
「いや、是非受け取ってほしい」
真備は部屋の隅を指差した。
そこにあったのは……彼が十七年間愛用した、あの
「……」
なんと言っていいか分からないでいるわたしの頬を真備は両の手でつねって、
「笑え」
わたしは泣きながら笑った。真備も笑った。
わたしたち主従がそんなふうに笑い合ったのは、それが最初で最後だった。
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