二十六 井総之交(二)

 もう何度こうやって長安の街を駆け抜けたことだろう。だがいまが一番早く走れた。足が、体が、心が、弾むように軽かった。

 宣陽坊せんようぼうの真成の家に駆け込むと、真成は部屋にいて机に向かっていた。

 息を切らすわたしに彼は首を傾げ怪訝そうな顔で、

「どうした?」

 わたしは一度大きく息を吸い込み、

「お伝えしたいことがあります!」

「なんだ?」

「やりたいことが見つかったんです。わたしは子どもたちに字を教えたい。わたしが唐人塚で旅の僧に字を教わったように。あのとき自分の名に字があると知って、わたしは天地がひっくり返ったかのような衝撃を受けた。だから同じように他の子どもたちにも字を教えてやって、あの驚きを、感激を味わってほしいんです。わたしには何の才も無いですが、教える子どもたちの中に真成さまや真備さまのように賢く多才な者がいるかもしれない。彼らにわたしが知っていることを全部教えてやって、そうだ、李先生のように唐語も教えて、彼らを遣唐使にしたい。この長安の街を、大雁塔を、たくさんの日本の子どもたちに見て欲しい。これがわたしのやりたいことです!」

 わたしは早口で一気に喋った。自分でも驚いていた。一度も言葉をつかえなかった。

 真成はわたしを無言でじっと見つめていたが、やがて以前のように優しく微笑んで、

「よかったな、やりたいことが見つかって。ならおまえは日本に帰る決意ができたんだな」

「はい、みなさまと一緒に帰ります。でもやっぱり不安が残るので、同じ船には乗りません。きっとまた遣唐使船は四船来るでしょうから、そのうちのみなさまとは別の一船に乗ろうと思います。その方が気が楽ですから」

 わたしの答えを聞いて真成は少し硬い表情になって、

「おまえの喰った唐人塚の土には唐人の魂がこもっていたかもしれないが、もともとは上総の土だ。おまえの体の中の故郷の土がおまえを呼び戻す。船が沈むなんて心配することはない。おまえは必ず日本にたどり着き、そしていつか上総に帰る」

 彼の言葉を聞いてわたしはびっくりして、

「わたしは上総になど二度と帰るつもりはありません。日本に帰ったら李先生のように平城京で子どもたちに字を教えようと考えています」

 真成は首を横に振った。

「平城京で字や唐語を教える者はたくさんいる。おまえを必要としているのはおまえと同じ東国の、あるいはもっとみちのくの子どもたちじゃないか? おまえと同じように里を離れたいと思っている東国の子どもたちに手を差し伸べ、おまえが彼らの居場所になってやるんだ。あるいは辛い場所を脱出する手助けになるよう、おまえは字を教え、唐語を教え、遣唐使になる機会を与えるんだ。それが出来るのはおまえだけだ」

 わたしと同じようにつらい思いをしている子どもたち。毎晩毎晩、明日なんて来なければいいのにと願っている子どもたち……。

 きっといる。そうだ、彼らの力になりたい。

「でもやっぱり、わたしなんかにできるでしょうか」

「できる」

 真成は断言した。

「どうしてそう思うのですか?」

「李先生が言っていた。真海は与えられた仕事に対しては、ひとの見ていないところでも手を抜くことがないって。東国の子どもに字を教えるのがおまえの一生涯の仕事なら、おまえはその使命を絶対にやり遂げるはずだ」

 わたしは胸が熱くなって目に涙がこみ上げてきた。

 真成はそんなわたしの様子に気がついて、

「また泣いているのか。おまえは本当に泣き虫だな」

と笑った。

 わたしはその笑顔に思いきって、

「真成さま、わたしを遠ざけたのは、わたしに自分の使命を気づかせるためですか?」

 真成はまた首を横に振った。

「そうだ。だがそれだけでもない」

「ではほかの理由は何ですか?」

「それは……それは、おれがおまえを友だと思っているから。だからおれの身勝手におまえを巻き込みたくなかった。おまえ自身がやりたいことをやってほしいと思った」

 友?

 友。

 友!

 彼はいま、おれを友だと言った!

「真成さま! わたしを友って、いつからそう思ってくださっていたのですか!?」

「いつからって、初めて会ったときからだよ。言っただろ、おれはおまえを傔従けんじゅうとして選んだわけじゃないって。選んだのは宇合うまかいだって」

「なら、どうしてひとことそう言ってくださらなかったのですか! わたしは、わたしも、ずっとあなたさまを友だと思っていました!」

 真成はきょとんとして、

「そうだったのか? おれはおまえがおれによく仕えてくれるのは、それこそ仕事に手を抜かないからなのだとばかり思っていた」

「あなたさまはわたしにとって、生まれて初めて心が“友”と慕った方です。でもわたしは傔従で、あなたは主人です。そんなふうに思うことはいけない、と自分に言い聞かせてきました。あなたが張進志ちょうしんしさまと肩を組んで互いに友と呼び合っているとき、わたしは胸が引き裂かれそうでした。うわーん!」

 わたしはもう子どものように大声を上げて泣いてしまった。

「どうして一度も友よ、と呼んでくれなかったのですか! わーん、わーん!」

 わたしがあんまり泣くので、真成はとうとう呆れ顔になった。

 が、突然ぷっと吹き出して、

「分かった、分かった。もう泣くな、友よ」

 彼はわたしの肩に手を置いた。

 わたしは溢れ出る涙を何度か袖で拭ってからそっと彼の肩に手を置き、真っ直ぐに彼の大きな目を見つめて言った。

「泣かせてくれよ、いまくらい。友よ!」 

 真成は大笑いした。

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