二十五 元宵観燈(一)


 開元かいげん十年(七二二年)の元宵観燈げんしょうかんとうの最終夜、わたしは崇義坊すうぎぼう真備まきびの家の中でひとりぼっちだった。

 真備は元蘇蘇げんそそのところにでも行ったのだろうか、帰ってこない。真成まなりも来ない。そん婆さんの姿すら見えない。

 家の中は真っ暗で静まりかえっていた。

 年があらたまって最初の満月を迎えるこの元宵節げんしょうせつの三晩、ふだん夜間外出禁止の長安は一晩中坊門を開き、ひとびとは街中に飾られた無数の灯籠とうろうの下を夜中もそぞろ歩く。

 一日目、二日目は、わたしは傔従けんじゅうらしく真備のあとについて弁正べんせいの家や、役人となった仲麻呂が構えた立派な屋敷に行ったりした。そこで真成にも会った。

 彼はにこにことわたしに話しかけてくれた。わたしは嬉しくてたまらなかった。

 だが別れ際彼はわたしにこう言ったのだ。

「明日の晩はもう兄さまについて行かなくていいぞ。おまえにはおまえの付き合いがあるだろうから。明日はおまえの友と好きに過ごすといい。なあ、兄さま?」

 真備はうなずいた。

「ええ、きみの言うとおりです。真海まうみ、明日は仕事は休んでいい」

 わたしはとっさに言葉が出て来ず、黙って頭を下げただけだった。

 家の前の通りを行く酔客の騒ぎ声が聞こえて来た。

 自分の部屋で寝台に腰掛けていたわたしは耐えきれなくなって両耳を手で塞いだ。

 おれには友もない。相変わらずやりたいことも見つからない。なんでここにいるんだ。何をしているんだ。どこにいてもおれは孤独だ。いつまでこんな思いを続けるんだ!

「ああ! もう終わりにしたい!……」

 吉麻呂の言ったとおり、はりに縄を掛けて首をくくって死んでしまおうか。

 わたしは燭台に火をつけ、椅子の上に立って梁に帯を掛けようとした。

 が、

「……?」

 わたしは燭台を梁に近づけた。

「!」

 そこには墨で書かれた小さな円があった。

 おれは書いた覚えはない。ということは……真備が書いたのか!?

 真備にはいつかおれがこうすることが分かっていたというのか!?

 ああ、墨の月!

 御蓋山みかさのやまで見た月!

 あの月を見上げる真成と真備と仲麻呂の姿を、いまでもはっきりと思い出すことができる。志に燃える若者たちの美しい横顔を。その場におれもいたのだ。

 そのことを思い出せ、と、真備がこの月を書いたのだとしたら。

 真備は、おれのことも仲間だと思ってくれている、ということなのだろうか。十数年後にともに日本に帰って、また一緒に御蓋山の月を眺めようと言ってくれているのだろうか。

 あの夜、同じ月に照らされていたなら、きっとおれの顔も輝いていた……。

「キコー!」

 突然庭の鶏が鳴いた。わたしはびっくりしてよろけ、椅子から落ちた。

 手に持っていた燭台の火が袖に燃え移り、わたしは床を転げ回った。

「あちちちち!」

「キコー! キコー!」

 今度はわたしの声に鶏たちが驚いて、奇声を上げてばさばさ騒ぎ始めた。

 ばん! と部屋の戸が開き、わたしは中に入ってきた何者かに細い棒で叩かれまくった。

「痛い! 痛い! 止めろ止めろ!」

「なんだ、真海しんかい、あんたかい?」

 孫婆さんの声だった。

 婆さんは手に持っていたほうきを投げ捨て、床に転がっているわたしの袖の火から器用に燭台に灯りをとると、残った火を足で踏んづけて消しながら、

「賊でも家に入ったのかと思ったよ。あんたいったい何してたんだい? あんたみたいな若い人は、こういう夜は家にいちゃいけないよ」

 婆さんはいつになくおしゃべりだった。どうやら酒が入っているようだった。

「だって一緒に出掛けてくれるひとがいないんだよ。婆さん、おれと灯籠を見に行ってくれるかい?」

 婆さんは目を丸くすると、ふふっと笑った。 

 婆さんの笑顔を見るのは初めてだった。

「銭が無いならあたしが少しやるよ。遊んでおいで」

「そんなのもらえないよ。婆さんが毎日はたらいてやっと貯めたお金じゃないか」

「キコー!」

 まだ鶏が騒いでいた。

「うるさいねえ。真海、あんた、あの鶏持っていきな。三羽もあればそれなりに飲み食いできるだろ。ほら、行ってきな」

 婆さんはわたしの肩をぽんぽんと叩いた。

 わたしは鶏小屋に入って鶏を追っかけ回した。鶏は抵抗してわたしを鋭いくちばしで突いた。

 わたしはもうやけになって、指や手の甲を傷だらけにしながらもなんとか三羽捕まえて袋に押し込んだ。

 くたくたになって小屋の外へ出ると、夜空高くに月が照っていた。きれいだった。

 そのときふと真備の言葉を思い出した。

 醴泉寺れいせんじで真成を見つけたときに言っていた言葉を。

「思いっきり馬鹿をやればいい」

 そうだ、おれも思いっきり馬鹿をやろう。

 台所に行き懐に包丁を差し込んだ。鶏の袋を肩に担いで通りへ出た。

 肩の上で鶏はまだ暴れていた。

「キコキコ!」

「うるさいぞ! 焼いて喰っちまうぞ!」

 なんだか楽しくなってきた。

 近くの坊で一番大騒ぎしている酒場を見つけた。

 わたしは担いだ袋を指し示して店の女に、

「この三羽の鶏で、酒と女を用意してくれ!」

「何言ってんだい、それっぽっちじゃ八十の婆さんだって相手しないよ」

 わたしは構わず店の中に押し入った。

「ちょっとあんた!」

 止めようとする女を振り払い、わたしはそばの卓の上の酒を勝手に飲んだ。

「おい、てめえ!」

 席に座っていた男がわたしの胸ぐらを掴んだ。

 わたしは身をよじって袋から一羽の鶏を掴み出し、卓の上に乗せた。

 そして懐から包丁を取り出すと叫んだ。

「この鶏を大唐帝国皇帝陛下に捧げます! 大唐帝国万歳!」

 わたしは包丁を鶏の首に振り下ろした。

 鶏の頭はすっ飛んでいき、床に落ちるときょろきょろと目を動かして胴を探した。胴は頭を追いかけて卓の上を走り回った。

 女たちは悲鳴を上げ、男の酔客たちはどっと沸いた。

 大きな刀をさやから抜いた男二人が、

「おれにもやらせてくれ! 大唐帝国万歳!」

「おれもだ! 万歳、万歳、万万歳!」

と、残りの二羽の鶏の首も刎ねた。

 血の匂いを嗅ぎ、しぶきを浴びた酔っ払いどもの興奮は最高潮に達した。

 鶏はさっそく料理されて客に振る舞われ、わたしはお礼にみなからしこたま酒を注がれ、飲まされた。

「ははは! おまえ、面白いじゃねえか。おい、女ども。おれが銭を出すから、誰かこいつの相手をしてやれ!」

 店の一番いい席に座っていた髭もじゃの大男が女たちに向かって叫んだ。

 女たちはきゃあきゃあ言いながら首を横に振った。

「なんだ、いいってやつは誰もいねえのか。ならおれの女を貸してやる」

 大男は隣りにいた鮮やかな紅色の上衣を着ている三十過ぎの太った女の背中をどんと突いた。

 女は大男をど突き返した。

「馬鹿言ってんじゃないよ!」

「うるせえ! おれの言うことに従え!」

 大男は女とわたしの腕を捕まえて店の奥に引きずっていき、遊女が客の相手をする狭い部屋にどさっと投げ入れた。

「好きにしな!」

 大男は笑いながら扉をばん、と閉めた。

「このろくでなし!」

 女は扉を蹴っ飛ばした。

 わたしは床に転がったまま女を見上げていた。女が振り向いた。

 彼女はわたしを見下ろしてしばらく黙っていたが、ふん、と鼻を鳴らすとつかつかとこちらに歩いてきて、いきなりわたしの……。


    

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