二十二 いたずら鞠(二)

 父親の崔日知さいじつちは腰が抜けて椅子からずり落ち、母親は立って短い悲鳴を上げると卒倒した。

 群衆は歓声を上げた。真備まきびは突っ立ったまま微動だにしなかった。いつの間にか金仁範きんじんぱんはいなくなっていた。

 わたしは叫んだ。

「真備さま!」

 真備ははっと我に返って、

「真海、金仁範は?」

「い、いません」

「どこかに隠れているはずだ。いますぐ見つけ出して連れて来い!」

 崔家の侍女たちが真備の両脇を捕まえ、台上へと引っ張って行ってしまった。

 わたしは人混みの中を見回したが金仁範の姿は見つからなかった。人波をかきわけて広場を脱出した。金仁範がどこにいるのかなど見当もつかなかった。さっそく途方に暮れてしまった。

 彼の家まで行ってみるか? 崇義坊すうぎぼうに戻って真成まなりに助けを求めるべきか? それともここから近い弁正べんせいの家に行って事情を話して……だめだ、もう二度と面倒は起こさないと誓ったばかりだ。どうしよう。

 ぽんと肩を叩かれた。

 驚いて振り向くと、金仁範がにこにこしながら立っていた。

「金さま!」

「そう大声を出すな。さあ、おまえはもう帰れ」

「いえ、真備さまが!」

「だから騒ぐな。大丈夫だ。真備が今日帰ってこなくても、明日には帰ってくるから、心配するなと真成にも伝えておけ」

 わたしは崇義坊に飛んで帰った。

 真成に広場であったことを話すと彼は目を丸くしたが、金仁範の言葉を信じようと言っただけだった。

 はたして暮鼓ぼこ近くになって真備は帰ってきた。彼は「捕まっていたが、突然解放された」と疲れた顔で言って部屋に入ってしまった。

 こんなこと前にもあったなあ、と真成とわたしは顔を見合わせた。

 次の日の午後、まるで何事もなかったかのように、爽やかに金仁範が現れた。

 金仁範は真備の顔を見るなり、

「おれを殴りたいか?」

 真備は首を横に振った。

「いいえ。これで借りは全部返せたのでしょうか」

「そうだな、崔温嬌さいおんきょうの報酬しだいだな」

 真成が金仁範に、

「おい、からくりを説明しろ」

「つまりな、こういうことだ。あの崔家のご令嬢、崔温嬌は、鞠投げなんかしたくなかったんだ。彼女には密かにいいなと思う男がいたが、女が自分で結婚相手を選ぶなんてあるわけない。鞠をぶつける相手はあらかじめ親が決めているんだよ。鞠投げはああいう裕福な連中の暇つぶしに過ぎないさ。崔温嬌は親が選んだそいつと結婚するくらいなら、いっそ尼になった方がましとまで思い詰めた。まあ、あの年頃の娘にはありがちだな。彼女は侍女に思いを打ち明けた。侍女はおれのところへ相談に来た」

「なんでその侍女はおまえのところに?」

「それも説明がいるか?」

 金仁範は懐から果実を取り出して見せた。

「いや、いい」

 真成は早くしまえとばかりに手をしっしと振った。

「そこでおれが思いついたのが今回の作戦だ。鞠を変な男にわざとぶつけて騒ぎを起こして、その男以外だったらもう誰でもいいから! と親に泣きつかせるというものだ」

「うむ、なるほど。それで〝変な男〟と言ったらわたし、というわけですね」

 真備が顎に手をやって唸った。

 金仁範は笑って、

「〝変な男〟というのは、唐人じゃないって意味さ。本当にただの頭の変な男に鞠をぶつけたら、周りもすぐにおかしいと気づくだろ。そこそこ見栄えもして教養もあって、だが唐人じゃない、唐での出世の見込みがない、という男じゃないとな。真備しんび、おれはすぐにおまえが思い浮かんだ」

「唐人でないというのなら、あなた自身でも真成でもよかったはずでは?」

「何を言う。おれだと崔温嬌の母親あたりに本気で気に入られてしまうかもしれないだろ? それから真成だと騒ぎを起こしたばかりでさすがにまずかろうと思って。実際真備、おまえを選んでよかったよ。おれ自身もびっくりするくらい、おれの思い通りに動いてくれた」

「あなたはわたしのことをよく知っているんですね」

「へえ、おまえがそんな嫌味を言うとはな」

「嫌味ではありません。本当にそう思ったんです」

「なら褒め言葉か。ありがたく受け取っておく。崔温嬌の侍女からは上手くいった、お嬢様は想う相手と結婚できそうだと知らせがきた。たぶん近いうちに崔温嬌からお礼が届くと思う。それ次第で貸しは帳消しだ」

 十日ほどして金仁範から呼び出しが来た。

 真備とわたしが指定された茶楼に行くと、なんとそこには崔温嬌と侍女がいた。

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