二十二 いたずら鞠(一)

 吉麻呂よしまろ淑梅しゅくばいの結婚式が華やかに挙げられ、ああ、いつかあんなふうに自分も妻を迎えたいなあとわたしがその余韻に浸っていたある日のこと、金仁範きんじんぱんがやって来た。

 彼は真備まきびの部屋に入ってまず天井まで積み上げられた書物に驚き、次に部屋の中に漂っていた用足壺の匂いにその端正な顔を歪めたあと、

「このあいだの借りを返してもらう。やっぱり四十年も待てないからな」

 彼は真備とわたしに東市の書店に買い物があるから荷物持ちとしてついて来いと言った。

 真成にはおとなしく学問してろと言ってついて来させなかった。

 東市へ行くと、広場に人だかりができていた。

 金仁範がそばにいた男に何事かと尋ねた。

 男は広場の中央を指差して、

「元京兆府尹けいちょうふいん(長安城長官)崔日知さいじつちさまの一番下のご令嬢が、夫選びのまり投げをなさるんだよ。お嬢さまの投げた鞠が当たった者が夫になるのさ」

「へえ、面白いな。なあ、真備」

 真備は眉をひそめて、

「いつも女たちから果実を投げつけられているあなたには面白いかもしれませんが、わたしにはそう思えません。男が女に鞠をぶつけられてそれを喜ぶとは。むしろ嘆かわしいです」

 喧噪のためか、金仁範は大声で聞き返した。

「えっ!? 何て言った!?」

 真備もつられて大きな声で返した。

「大唐の男たる者が女に鞠をぶつけられて喜ぶなんて、嘆かわしいと言ったんです!」

 するとそれを聞いた周りの男たちが一斉に怒りだした。

「なんだ、てめえ! 何様だ!」

「もう一回言ってみろ!」

「そうだ、そうだ、この野郎。崔さまの前でもおんなじこと言ってみやがれ!」

 彼らは真備を捕まえて前へ引っ張り出した。ついでにわたしももみくちゃにされてどんどん前方へと押し出された。

 最前列まで行くと、広場の真ん中に設置された台の上に立っている女たちの姿が見えた。

 その真ん中にいる一番年下そうな少女はひときわ着飾っており、手に真っ赤な鞠を持っていた。十五歳くらいのこの少女が、崔家の娘のようだった。

 彼女の後ろには椅子に座った中年の男女がいて、下に居る群衆を小馬鹿にした表情で眺めていた。二人は少女の両親の崔日知夫婦と思われた。両親は引きずり出された真備を見ると互いに顔を見合わせた。

 台上にいた崔家の執事とおぼしき男が怒鳴った。

「何事だ!」

 真備を捕まえている男たちは、真備が鞠投げを馬鹿にした、崔家に無礼をはたらいたと口々に言った。

 それを聞いて台上の鞠を持った崔家の娘は隣にいた侍女の耳に何かを囁いた。

 侍女はうなずき、大きな声で真備に向かって、

「無礼者、名を名乗りなさい!」

 真備を捕まえていた男たちは彼を手放した。

 真備は不機嫌そうだったが、衿を正すと落ち着いた声で、

「わたしの名は真備しんびです」

「真備、あなたは何者ですか」

「わたしは日本人です。在長安留学生です」

 群衆はどよめいた。

 侍女がまた何か言おうとするのを崔家の娘は手で制した。

 娘は台の縁まで進み出て真備を見下ろし、

「真備、わたしは聞いたことがあります。日本国のいまの主上は女であると。あなたは日本に帰ればその女皇に仕えるのでしょう? つまり女にひれ伏し、女の命令に従って動く。それは嘆かわしいことではないのですか」

 群衆からは嘲笑が漏れた。

 真備はあきらかにむっとしたようだった。

 だが彼はゆっくりと周囲を見渡し、大きく息を吸い込むと、広場中に響くような声で堂々と言い返した。

「我は社稷しゃしょく(国家)の臣なり! わたしは日本に帰れば日本国の社稷に仕えるのです。君主の私用の臣ではありません。男であろうと女であろうと、正当な方法でもって君主となった方ならばその方に忠誠を尽くし、ただ社稷のためにはたらくだけです。何を嘆くことがありましょう」

 広場はしんと静まりかえった。

 崔家の娘は持っていた鞠を頭上に掲げると、えい、と真備の胸に投げつけた。

 鞠はころころと真備の足元に転がった。

 娘は真備を指差して両親を振り返り、

「お父さま! お母さま! わたくしこの方と結婚します!」

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