二十一 子守歌(一)

 真備まきびは少し目を大きくして、

「誰のですか?」

「おれの」

「お相手は?」

淑梅しゅくばい弁正べんせいの娘だよ。ほら覚えてるだろ、鹿しかむすめ」

 真備と真成まなりは顔を見合わせた。

「来年には、子も生まれる」

 真備と真成、そしてわたしはみな口をあんぐり開けたが、どの口からも言葉は発せられなかった。

「おい、誤解するなよ。あの娘のほうからおれの懐に飛び込んできたんだからな」

 吉麻呂よしまろは机の上に脚を投げ出して、

「下品な想像をされるのは不愉快だから説明しておく。仲麻呂が京兆府試けいちょうふしを来年受けると決意したあと、おれも覚悟を決めたんだ。しかるべき唐女を娶って身を固め、いっそう仲麻呂を支えることに集中しようって。もともとこっちで再婚はするつもりだったしな。それで弁正に、いいところの娘を紹介してくれって頼みに行った。そしたらそれがなぜか淑梅の耳にも入ったらしくてさ。少し経って別の用事でまた弁正の家に行ったら、廊下で淑梅が待ち構えていた。彼女がおれにもう結婚相手は決まったのかと尋ねてきたから、〝まだです。お嬢さまのように美しく聡明な方を妻にできればいいのですが〟。とまあ、おれとしてはいつもの調子で答えたわけだ」

「……続きをどうぞ」

 真備がぼんやりと窓の外を眺めながら言った。

「おれの返事を聞いて淑梅は驚いてさ、〝それってわたしを妻にしたいってこと? あなたわたしのことが好きなの?〟って目を潤ませてきた。おれはしまったと思った」

 真備は顎に手をやって、

「確か淑梅お嬢さまは、幼いときから日本人と結婚したいと願っていたとか」

「それはおれも覚えていたよ。でもおれは淑梅は仲麻呂に気があるんだと思ってたんだよ。だから二人の仲が深まるようにそれとなく気を回していた。仲麻呂が弁正の家に行ったときは、淑梅と二人になる時間を侍女に作ってもらったり、仲麻呂に淑梅のいいところを吹き込んだり」

「さすがだな」

 真成がぽつんと呟いた。

「もっとも仲麻呂の方は淑梅に全く興味がなさそうだった。さて、おれはとっさに淑梅に〝わたしはただの傔従けんじゅうで、くらいもない。お嬢さまとは釣り合いません〟とかなんとか言って切り抜けようとした。だけど淑梅はしつこくてさ。おれもだんだん面倒臭くなって、最後は〝わたしのことなんか放っておいてください!〟と振り切っちまった」

「その話、いつ終わる?」

 真成が寝台のへりを指でなぞりながら言った。

 吉麻呂は机の上の脚を組み替えて、

「もう終わるよ。そんなことがあったから、しばらく弁正の家には行かなかった。だがある日暮鼓ぼこが鳴っているときに、宿舎の門番がにやにやしながらおれのところにやってきてさ。〝お客さんだよ〟と言うから出てみたら、なんとそこにいたのは淑梅! おれはすぐに帰れと言ったが、お嬢さま、がんとして聞かない。一緒にいた侍女が賢い女で、〝ここへ向かったことは他の下女に話してあります〟と言うから、とりあえず門番に頼んで人目につかない部屋に二人を通してもらった。門番もこんなことには慣れているらしくて、飯だのあかりだのすぐに用意してくれた。おれも駄賃ははずんだよ」

 真成が腕組みをして天井を仰いだ。

「もう終わるんじゃなかったのか?」

「終わるって! おれは二人に朝になったら家まで送っていくから、それまで絶対部屋の外に出ないように、おれが外で見張りをするから安心して寝ろと言って部屋を出ようとした。そしたら淑梅がおんおん泣き出して。侍女が〝女の方から来たんですよ、その覚悟が分からないんですか!〟って怒って部屋を出て行ってしまったから、おれもとうとう覚悟を決めました。はい、おしまい」

 真成と真備は同時に深い溜息をついた。

 吉麻呂は頭の後ろで腕を組んで、

「ほんとはもうちょっといい女を娶りたかったんだけどなあ。まあ、淑梅にも可愛いところはあるし。それにあのときの一発で子ができちまったんだから、これも運命だろうな」

「もういい。下品な想像はしてほしくないんだろ。結婚式には出席する」

 真成は立ち上がって部屋を出て行こうとした。

 吉麻呂はぱっと上体を起こして、

「おいおい、待てよ、それだけかよ?」

 真成は怪訝そうな顔をして振り返り、

「なんだ?」

「独身生活最後のおれに、何か楽しい思い出を作ってやろうって気はないのか?」

「勝手に作れ……いや待て、そもそもおまえ、いまだって独身じゃないだろ!」

 すると吉麻呂は急に暗い顔をして、

「……おれが日本に残した妻のことを忘れたとでも思うのか? おれの心は、おまえが一番分かるんじゃないのか……?」

 真成もしんみりした顔つきになり、

「分かった。何をすればいい?」

「それも分かるだろ? ほら、おれが行きたいところ、と言えば、飯が美味くて」

 真成はすぐに呆れ顔になり、

「何が妻を忘れていないだ! 結局それか!」

「そうだよ、当たり前だろ。おれが仲麻呂みたいに男だけで集まって、池に舟浮かべて詩作ってお互い好好ハオハオ言い合うとでも思ったのかよ」

「うん? ということは、その思い出作りとやらに仲麻呂は呼ばないつもりか?」

「ああ、だってあいつはやっぱりおれのご主人さまだからな。あいつがいるとおれもお行儀良くしてないといけない」

「ならおれと兄さまも行かない。彼がまた自分だけ除け者にされたと思うのは避けたい」

「構わねえよ。金と場所さえ用意してくれりゃ。あ、そしたら真海まうみを貸して」

 わたしは突然指名されてびっくりしてしまった。正直行きたくないと思った。

 吉麻呂は、

「おれはまだおまえたちを完全には許していない。でもこれで忘れてやってもいい。もし金が無くてだめなら、そうだな、真備さん、あんたが付き合ってる胡姫に会わせてくれない? 彼女には仲麻呂も会ってみたいと言っていたなあ」

 真備の目が点になった。

 彼のそんな表情は初めて見たから、わたしは吹き出しそうになってしまった。慌てて袖で顔を隠した。

 真備のかすれた声がわたしの耳に届いた。

「……真成、なんとか彼の望みが叶う場所を探しましょう」

 真成の溜息も届いた。

「……そうだな、兄さま。ああ、困ったときに助けてくれるやつがいたな……」

 日を置かずに、真の字三人組は金仁範きんじんぱんを訪ねたのだった。

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