二十 義兄弟(八)

「兄さま!」

 倒れた真備まきびを助け起こそうとした真成まなり吉麻呂よしまろに殴られた。

 吉麻呂は真成の胸ぐらを掴み、

「いい加減にしろ! 何が心配かけたくなかっただ! おい、おまえら分かってんのか? おまえらが酒飲んで胡姫とよろしくやってたあいだ、仲麻呂なかまろは皇宮の硬い床にひたいを打ち付けて、おまえらの捜索と、見つかった際にどんな罰も免除してくれるよう嘆願していたんだぞ? なあ、おまえら本当に分かってんのか!?」

 吉麻呂はもう一発、真成に平手を喰らわせて、

「おまえらはあいつとも兄弟だろうが! なんでおまえらだけで解決しようとしたんだよ? あいつを除け者にしようとしたんだよ? まさか太学で上手くやってるあいつをひがんだんじゃねえだろうな!?」

「そんなことあるわけないだろう! 兄さまはただ本当に彼の学業を邪魔したくなかっただけだ!」

 真成は言い返した。

 吉麻呂は真成の首を絞めた。慌てて真備と玄昉げんぼうが止めに入った。

 怒りの収まらない吉麻呂は足で真成を蹴っ飛ばそうとしながら、

「うるせえ、馬鹿野郎! 仲麻呂が宿舎の部屋の壁に何を書いたか知ってるか? 墨で小さな円を書いたんだよ。あいつはそれが何なのか言わなかったが、教えてもらわなくたっておれにはちゃんと分かってる。あれは月だ。おまえらと一緒に御蓋山みかさのやまで見た月だよ。雲が立ちこめ、雨が降る月のない夜でも、あいつはおまえたちとの誓いを忘れないよう部屋の月を見上げてる。毎日東を遙拝ようはいして故郷を思い出してる。その仲麻呂を除け者にしやがって! ああ、畜生、本当に許さねえ! 今度逃げたくなったら、部屋のはりにでも縄かけて首くくってとっとと死んじまえ!」

 吉麻呂は真っ赤になった目を袖でぐいと拭い、

「だめだ、やっぱり死ぬな。おまえらが死んだら仲麻呂が悲しむ。あいつはおまえらが好きなんだ。きっと平城京の大学にいたときから。ずっと話しかけたかったんだと思う。おれには分かる。おれは出世のためにあいつの傔従けんじゅうになったが、そのおれにあいつが最初に尋ねたのはおまえらのことだった。なんで真成は真備を兄と呼ぶのかと訊いてきたんだよ。おれが知らないと言うとすごくがっかりしてた。だからおれは言った。あなたも彼らと兄弟になったらいいじゃないですか、家柄とか身分とかは考えずに、三人だけの決め事にすればいいと」

 吉麻呂は鼻をすすってもう一度袖で涙を拭いた。

 吉麻呂は全部日本語でしゃべっていたから、部屋の隅で弁正べんせいがひそひそと金仁範きんじんぱんに通訳をしていた。

 金仁範は黙ってうなずきながら聞いていた。

「きっといまだって太学の講義を受けながら、あいつはおまえらのことを思ってる。なあ、二度と逃げるな。そして何があっても死ぬな。仲麻呂をもう絶対に悲しませるな。分かったか!」

「……分かった。もう二度と彼を悲しませない。おまえにも迷惑かけた。すまない」

 真成がかすれた声で答えた。

 弁正が咳払いをして、

井真成せいしんせい真備しんび。皇上は朝衡ちょうこうの兄を思う心に大変感心なさり、さらに科挙に本当に挑戦するつもりの彼に直接お言葉をかけられたのです。曰く、来年京兆府試けいちょうふし(科挙の一次試験)を受けてみよと。朝衡はいたく感激して、必ず受かって見せますと力強く答えていました。それから科挙を断念せざるを得なくなった張進志ちょうしんしに対しては、皇上はその信義の厚さを褒め、彼が故郷しょくに帰った際には、その地方の役所のしかるべき役職を用意すると仰せになりました」

 真成と真備は皇城の方を何度も遙拝した。

 金仁範は、

「はじめからおれのところに相談に来ていればよかったのに。まあ、無事に見つかって何よりだ。おれも探すのを手伝ったことは忘れるなよ? この借りはいつか必ず返してもらう。そうだ、ついでだからこのあとどうしたらいいか教えてやる。井真成せいしんせい、ついて来い」

と言って真成を連れて帰って行った。

 玄昉はわたしのそばに来て、

「なぜ真成が醴泉寺れいせんじにいると分かった?」

 わたしは玄昉には隠し事はできないと思って、

「以前醴泉寺に行ったとき、近くに琴を弾く旅芸人の少女がいました。彼女を見て真成さまは想い人を思い出したようでした。もし真成さまが俗世を捨てるなら、そのときは最後に想い人を思うのではないかと」

「似ていたのか?」

「いいえ、顔はあまり似ていませんでした。でも真成さまと想い人は仲良く琴を弾いていらっしゃいましたから……」

「そうか……」

 玄昉は呟くように言った。

 真備と吉麻呂、弁正は黙ってわたしたちのやりとりを聞いていた。

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