十九 遊仙窟(四)

 わたしが真備の部屋に案内すると、玄昉げんぼうは中に入った途端匂いに顔をしかめた。

 寝台に腰掛けた玄昉は机の前に座っていた真備まきびに、

「真備、おまえは相変わらず書物の虫のようだな」

「玄昉、『大唐西域記だいとうさいいきき』なら元淼げんびょうから借りてあります。どうぞ持って行ってください。返す期限は決まっていません」

「ああ、そのことなんだが、真面目に修行していた結果、寺のやつがおれのことを認めてな、もう寺にあったのを読ませてもらった」

 真備は口を少し開けたまましばらく言葉を発さなかったが、突然机をばん、と叩いて、

「なぜそれを早く知らせない!」

 わたしは飛び上がってしまった。真備のそんな大きな声を聞いたのは初めてだった。

 玄昉は頭を掻きながら、

「すまん、すまん。だがいいじゃないか、おまえだって読むことができたんだろう?」

「わたしがこれを借りるのにどれだけ大変な思いをしたか知らないでしょう」

「知らんな。教えてくれ。おまえの苦労が分かったなら、慰労のための銭は出す。それでまた好きな書物を買え」

「……必ず出しますか?」

「もちろん。元淼はただ書物を貸しただけか? 日本人のおまえのことを歓迎して家に呼んだりしなかったのか?」

 真備はわたしに部屋から下がるよう袖を振って示したが、玄昉は真備の話に嘘がないかおまえも一緒に聞けと残らせた。

 真備はちらとわたしの方を見てから、面倒くさそうに元蘇蘇とのことを話し出した。

 真成まなり張進志ちょうしんしとは違って、玄昉は大笑いしながら聞いた。

「……ひとりでまた元淼の家へ行きました。元蘇蘇は出てきませんでした。執事からすぐに書物を受け取って帰りました。話はこれで終わりです」

「おや? 本当にそれで終わりか? どうだ、真海まうみ

 実はわたしも帰ってきたときの真備の様子に引っかかるところがあった。

 それを言おうか迷っていると、玄昉はにやりと笑い、

「おれに隠し事ができると思うのか?」

 わたしは東人あずまびとであることを暴かれてしまったときのことを思い出して慌てて、

「い、いえ、その、実は……」

「何だ、はっきり言え」

「あの、真備さまは元家から帰っていらしたとき大変お疲れの様子でした。すぐにお休みになって……借りてきた書物を開きませんでした」

「なに、こいつが書物を開かなかっただと? それはおかしいな。真備、おまえなんでそんなに疲れたんだ? 白状しろ、さもないと一銭も出さぬぞ」

 真備がわたしを睨みつけたので、わたしは震えあがってしまった。

 真備は不機嫌そうに、

「元淼の家へ行きました。もう顔は出さないと言ったのに元蘇蘇が出てきて、わたしの顔を見るなり〝何よ、何か言いたいことでもあるの?〟と言ってきました。何も言うことなんかありませんでしたが、ふと考えました。彼女はいつもわたしの答えを聞いて怒る。ならば思っていることと反対のことを言ってみようと。それで言いたいことはあります、と答えました」

「ほう」

 玄昉は顎を撫でながら、少し身を乗り出した。

「そうしたら彼女は少し驚いた様子で〝何よ、言いなさいよ、聞いてあげるから〟と。わたしも驚いてしまいましたが、今度は言ったことと反対のことを言いました。いえ、やっぱり言いたいことはありません、と」

「続けろ、続けろ」

「彼女は〝言いなさいってば、気になるじゃないの〟としつこく迫ってきました。わたしは本当に何も言うことがなかったので……それで玄昉、あなたの言葉を借りました」

「おれの言葉?」

「〝天衣無縫てんいむほう〟」

 玄昉は目を丸くした。

 彼はふふ、と笑い、

「それで?」

「それで……彼女は気を良くして書物を貸してくれました」

「いやいや、その前に何かあっただろう?」

「……」

「彼女が天女かどうか、んじゃないのか?」

 真備は少しのあいだ黙っていたが、ふぅーと長い溜息をつくと、

「ええ、。彼女は天女でした」

「ははは!」

 玄昉は手を叩いて笑い、

「なんと素晴らしい話だ。いまの話を思い出しては、おれはしばらく心楽しい日々を過ごせそうだよ。ありがとうな、真備」

 真備は疲れた顔で、

「さあ、全部話しました。それなりの銭を置いていってください」

「まあ、待て。その前におまえはおれの言葉を借りたんだから、その借り賃を払え。それとそうだな、いまの話、おれと真海だけで聞いたのではもったいない。真成や仲麻呂、おっと忘れてはならないな、羽栗吉麻呂はぐりのよしまろにもおれから教えてやろう」

 真備は玄昉をうらめしそうな目で見て、

「分かりました。慰労金は言葉の借り賃、口止め料と相殺です」

 玄昉は手を頭の後ろで組むと目をつむり、弾むような調子で口ずさんだ。


 自隠風流到

 人前法用多

 計時應拒得

 佯作不禁他

 ……

 昔日曾經自弄他

 今朝並複従人弄……

(自分でもそういうこと好きだって分かってるから、人前では真面目に規則を守ってる。だめって言ってはみたけれど、そんなそぶりじゃ彼を止められない……昨日はわたしが彼をからかったのに、今朝はわたしがからかわれてしまったわ……)


 真備は眉をひそめて、

「それは『遊仙窟ゆうせんくつ』ですね。どうして僧のあなたがそんなもの知っているんです?」

 玄昉は片目だけ開けて真備を見ると、

「おまえこそ、よくすぐにこれが『遊仙窟』だと分かったな。さては相当読みこんでいるな?」

 真備は答えずに机に向かいなおったが、急にまた振り向き、

真海まうみ、おまえも口止め料が欲しいのか?」

 初めて真備から話しかけられたわたしはびっくりしたあまり悲鳴を上げてしまった。

「ひえっ! ……うわ、あの、その、いりません! 言いません! 言いませんから、絶対に、誰にも!」

 さて、玄昉は心楽しい日々と言ったが、わたしの方は「真備がどうやって元蘇蘇が天女であることを確かめたのか」を考えては、しばらく眠れなくて辛い夜を過ごしたよ。

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