十七 探花(二)

 太学たいがくでは日本人の仲麻呂が科挙かきょに挑戦するつもりだということはもう噂されていた。どうやら学生の父兄の中に謁見の儀に関わった高級官僚がいたらしかった。

 彼らはみな表立って口には出さないが、「遥か海の向こうの未開の国からやって来た身のほど知らず」と仲麻呂を陰で嘲笑っていたようだった。

 だがあるとき、太学で授業が始まる前、仲麻呂のそばにいた唐人学生二人が聞こえよがしにこんなことを話し出した。

「日本という国がどこにあるか知っているか?」

「いや、知らない。本当にそんな国この世にあるのか?」

「海の中に浮かんだ小さな島だそうだ」

「ふうん。では日本と月とではどちらが遠い?」

「日本だな。長安から月は見えるが、日本は見えない」

「ふふ、ではやっぱりそんな国、無いのでは?」

 二人はくすくすと笑い合った。そのうちの一人が仲麻呂をちらと見て、彼と目が合った。

 仲麻呂はすかさず二人の前に出て、一礼した。

「ありがとうございます」

 唐人学生二人は驚いて顔を見合せた。

「なぜわたしたちに感謝する?」

「実は先ほどお二人が発した我が故国日本の名がわたくしの耳に飛び込んで来ましたので、嬉しくてついお二人のお話の続きを聞いてしまいました。お二人は日本を月より遠いとおっしゃいましたね」

「それが?」

「月より遠い日本から来たこのわたくしには、月へ行くことなど容易たやすい、つまり月のかつらの枝を手折たおることなど簡単だと、そうお二人はわたくしを励ましてくださったのですね。この朝衡ちょうこう、大変感動いたしました。心より感謝申し上げます」

 おお、と周りで聞いていた学生たちから賛嘆の声が漏れた。

 「月の桂を折る」というのはね、科挙に合格するという意味の言葉だよ。月に生えているという桂の木の枝を折ることなど、ふつうひとにはまずできるはずがない。つまりそれだけ科挙に合格するのは難しい、ということなんだ。

「ああ、その通りだ」

「朝衡、頑張れよ」

 仲麻呂をからかおうとした当の唐人学生二人も彼の機転にすっかり感心して改心したらしく、その後太学では仲麻呂に話しかけ親しくなろうとする者が増えていったという。


「真成、おまえも四門学しもんがくでいろいろあるんだろ。真備さん、あんたも塾でなんか嫌なこと言われたりはしてるよな。だけどそれは仲麻呂も同じだよ。でもあいつはこうやって知恵をめぐらせて乗り切ってる。だからおまえらもさ、敵を作らないよう、それでいて舐められないよう頑張れよ。始めのいまが肝心だからな」

 吉麻呂は真成の肩をぽん、と叩いた。

「ああ、分かった。自分たちだけのことじゃなく、仲麻呂の足を引っ張らないようにも気をつける」

 真成は己に言い聞かせるように何度もうなずいていた。

 曲江宴きょくこうえんの日、長安中の人々が曲江に向かう進士たちの晴れがましい行列を一目見ようと通りに集まった。

 真成は一緒に見に行こうと真備を誘ったのだが、真備は人混みは嫌いだ、部屋で書物を読んでいる、と断った。

 真成はわたしを連れて大通りに出た。すでに人でごった返していた。馬に乗った進士たちの姿は遥か遠くにちらとしか見えなかった。

 折しも長安は牡丹の花が咲き乱れる一年で一番美しい季節だった。

 大雁塔だいがんとうのある大慈恩寺も牡丹の名所として有名だった。

 この季節はだいたいどこの寺も牡丹見物の客のために庭園を解放していた。

 また一部の裕福な人々も、彼らの立派な屋敷の庭を牡丹でいっぱいにしていた。

 これは探花使たんかしのためだ。

 探花使とは進士及第者の中で最も年の若い者のことだよ。探花使は長安の街に繰り出して、この大都で一番美しい牡丹の花を探し出し宴に持って帰らなくてはならない。

 探花使が選んだ牡丹が長安一と認められたら、今度はその花を咲かせた場所に進士及第者みなで行って、また宴会だ。

 選ばれた屋敷の主ももてなすのは大変だと思うが、とても名誉なことだったし、将来高官となる進士たちと近づくよい機会でもあったのだ。

 真成とわたしは人混みの中で仲麻呂を見かけた。

 だが彼は太学の学友たちととても楽しそうに話し、笑い合っていて、こちらにはまったく気がつかないようだった。

 そんな仲麻呂の様子をしばらく黙って見ていた真成はやがて静かに微笑んで、

「邪魔をするのは嫌だから、声をかけるのはやめておこう。まだ時間はあるし、どこか牡丹の名所にでも行ってみようか。そうだ、玄昉げんぼうのいる西明寺さいみょうじに行こう」

 

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