十六 崇義坊

 年があらたまった。開元かいげん六年(七一八年)の始まりだ。

 元旦の朝賀ちょうが出席も無事果たした霊亀れいきの遣唐使たちは、いよいよ帰国の準備にとりかかった。

 長安に残留する留学生、留学僧は鴻臚寺こうろじを出て、それぞれ世話になる学校や寺の宿舎に移った。

 阿倍仲麻呂あべのなかまろ太学たいがくへ、真成まなり四門学しもんがくへ入学することが決まっていた。

 入唐時二十三歳だった真備まきびは、身分の上では真成と同じ四門学に入学するのが妥当だったが、就学年齢十九歳までという決まりがあったために入れなかった。

 彼は鴻臚寺こうろじに授業しに来ていた四門学の先生のつてで、私塾を開いている学者に師事して学問することとなった。

 これは彼にとても合った学問の仕方のようだった。

 なぜなら真備は日本の大学で儒学に関するひととおりのことは学び終わっていたから、その学者には自分の学識を補ってもらったり、間違いを正してもらったりする一方で、興味のある兵法や暦法などに詳しい師をさらに紹介してもらったり、理解に必要不可欠な書物を教えてもらって買いそろえたりと、どんどん知識と書物の所蔵を増やしていくことができたのだった。

 鴻臚寺のある皇宮を出てすぐ南側が、太学と四門学のある務本坊むほんぼうという学校街だった。

 その務本坊の南側の坊が、学校に通う学生たちの宿舎が多く集まる崇義坊すうぎぼうだった。

 崇義坊では、仲麻呂は太学へ通う者が使う少し高級な宿舎のある一角へ、真成と真備は四門学学生たちが暮らす宿舎がたくさんある方へとそれぞれ分かれていった。

 本来留学生は太学や四門学構内にある留学生専用の宿舎に入るのが通例だったが、空きが無かったのだ。

 というのは建前で、本当の理由は、留学生宿舎を利用しているのがほとんど新羅しらぎ人留学生で、彼らと無用な軋轢あつれきを生まないようにするため、弁正べんせいが根回しして離れた場所を用意してくれたからなのだった。

 なぜ新羅人と距離を置いた方がいいかは分かるかい?

 ほう、白村江はくすきのえの戦いまで知っているのか!

 そう、わたしの恩師、李先生の故国百済くだらの遺民と日本が、百済を再興しようと新羅、唐連合軍と戦をしたんだ。結果は日本側が負けた。

 わたしたちが長安に着いたときはその戦いから五十年以上も経っていたが、新羅国との仲はまだ決して良好といえるものではなかったんだ。

 真成と真備が入った宿舎は大きなもので、五十人近くの学生が暮らしていた。部屋が十数室も並んだ細長い平屋の建物が、真ん中の食堂を囲むように建っていた。真成と真備以外はみな唐人だった。傔従けんじゅうのついていない学生の方が多かった。わたしは傔従用の大部屋に入れられた。

 傔従部屋に入ってすぐ、わたしはそこにいた唐人の傔従たちに挨拶した。彼らの反応はかんばしくなかった。はっきりいえばわたしと仲良くするつもりがないようだった。

 彼らのうちの何人かは日本人のわたしに興味を示して早口でいくつか立て続けに質問をしてきてくれたのだが、まだ本場の唐人の唐語を聞き慣れていないわたしは何度も聞き返してしまった。

 わたしの様子に失望したのか、彼らはもういいとばかりに手を振ってわたしの前から去っていった。

 そんな傔従部屋での最初の夜、寝床に入ったわたしは震えが止まらなかった。

 寒さのためだけではない。あの上総国府かずさこくふでの出来事を思い出したからだ。

 闇の中、物音がすると誰かがわたしのところへ来て顔に小便をかけるのではないかと思った。もうこのまま一睡もできなくていいから、早く夜が明けてほしいと自分の衿をぎゅっと掴んでいた。

 それでもやはり疲れていたのか、いつの間にか眠っていたようだった。

 そしてこんな夢を見た。

 浜辺に膝を抱えて座っている少年の小さな背中がある。なぜか波の音も風の音も聞こえない、無音の世界だ。

 わたしは少年に声をかけようとしてそっと後ろから近づく。

 が、突然足元の砂が崩れて地に穴が開き、わたしは地中深くへと吸い込まれそうになった。わたしは悲鳴を上げたが、その声も聞こえなかった。

 目が覚めた。

 外は雪が降っている極寒だというのに、全身汗びっしょりだった。

 わたしは顔を拭った。汗で濡れていたが、小便はかけられていなかった。

 それからも度々この夢を見た。

 そして起きてまず顔が汚れていないか、持ち物を何も盗まれていないか確かめるというのは、その後もずっとわたしの毎朝の決め事となった。

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