十二 舞姫(三)

 巻菱まきびし先生、お許しください。子どもたちにいまのような話をするべきではなかった……え、大丈夫? このくらいなら問題ない? ありがとうございます。では話を続けます。

 蘇州そしゅうから長安へ……うん? なんだい、かけるくん。司馬相如しばしょうじょって誰かって? それはね、漢という時代にいた琴の名手のことだよ。

 あるとき司馬相如は卓王孫たくおうそんという大富豪の家で琴を披露した。卓王孫には卓文君たくぶんくんという娘がいて、一度嫁いだが夫が死んだので実家に戻ってきていた。卓文君は琴を弾く司馬相如に一目惚れ、司馬相如も彼女を気に入って、二人は父親の目を盗んで駆け落ちしてしまったという話が残っているんだよ。

 真成に琴を弾かせた劉国容りゅうこくようは、とある大商人の妻だったひとだ。夫が亡くなったあと自分が夫に代わって商売を切り盛りしていた。つまり未亡人で、その彼女が真成を司馬相如と呼んだ。翔くん、きみにも劉国容の気持ちがなんとなく分かったんじゃないかな?

 さて、わたしたち遣唐使一行は蘇州からは運河を北上して長安へと向かった。乗るのは唐の役人たちが用意した細長い船だった。遣唐使船、そして水手かこたちとはここでお別れだった。

 長安へ行くことができたのは押使おうし、大使などのお偉方と留学生、留学僧など三十名ほどだけだった。残りの五百余名、水手や工匠こうしょうなどは遣唐使船の修理をしたり、蘇州で新しい技術を学んだりしながら押使たちの帰りを待つことになっていた。

 押使たちは長安で唐の皇帝に謁見したり朝賀ちょうがという儀式に参加する。それが済めばまた蘇州に戻ってくる。戻り着くのはだいたい一年後だろうと考えられていた。

 一方、留学生や留学僧は長安に残る。だから水手たちとはもう今生の別れとなるのだった。

 水手たちは日本に戻ればそれぞれの郷里に帰るんだ。二十年後にまた遣唐使船に乗ってわたしたち留学生組と再会する、などということはまずないとみんな分かっていたんだよ。

 運河にたくさん浮かんだ船のひとつに乗り込んだわたしたち留学生組と玄昉に、第三船の水手たちはずっと手を振ってくれていた。

「玄昉さまー! お達者でー!」

 玄昉は水手たちに向かって合掌した。

 別の水手が叫んだ。

「学生さーん! あんたの教えてくれた文句で上手いこといったよ、ありがとなー!」

 真成は笑顔で手を振って答えた。

「なんだよ、教えてやった文句って」

 案の定、羽栗吉麻呂はぐりのよしまろが食いついてきた。真成は一気に不機嫌な顔になった。

「真成兄さま、わたくしも知りたいです」

 阿倍仲麻呂あべのなかまろにまで催促されて、真成は話さないわけにはいかなくなった。

 真成の考えた口説き文句を聞いて仲麻呂は、

「素晴らしいですね」

とにっこり笑って褒め称えたが、吉麻呂はなぜかぷっと吹き出して、

「でもおまえ自身は上手くいかなかったみたいじゃねえか」

「なんだと?」

 真成は吉麻呂を睨みつけた。

 吉麻呂は頭の後ろで腕を組んで、

「ほら、例の大商人の未亡人の宴におまえが招かれたときのことだよ。真海まうみと二人で朝帰りしてきてさ、真海の方はなんだかしょんぼりしてるし、おまえはぶすっとして猛烈に機嫌悪かったし。あれか、その年増女、好みじゃなかったか。それとも唐の女は日本の女と勝手が違って、いどみ方が分から」

 言い終わらないうちに真成が吉麻呂を殴った。

 慌てて真備が真成を羽交い締めにして止めた。吉麻呂が真成を殴り返して、真成は真備もろとも後ろにひっくり返った。船はぐらぐら揺れた。わたしは吉麻呂を止めようとして彼にはじき飛ばされ、運河に落っこちそうになった。

 前後の船に乗っていた遣唐使たちが何事かとこちらを見ていた。

 唐人の船頭がを振り上げて怒鳴った。

「やめろ! いますぐやめろ! でないとおまえたち全員河に叩き落とすぞ!」

 玄昉が吉麻呂を取り押さえてどうにか喧嘩は収まった。

 わたしが驚いたのは、この騒ぎの中阿倍仲麻呂が何もしなかったことだ。彼は平然と座ったまま、真成と吉麻呂を交互に見ていただけで、自分の傔従けんじゅうの吉麻呂を叱るでもなければ義兄の真成を庇うでもなかった。

 そんな仲麻呂に玄昉が、

「平城京の大学でも二人はこんな様子でしたかな?」

 仲麻呂はにこやかに、

「はい。殴り合うところを見るのはわたくしも初めてでしたが」

「何か二人がこうなるきっかけがあったのでしょうな」

「はい。吉麻呂がわたくしに申したところでは、真成兄さまが大学に入学なされた際、すでに在学していた吉麻呂は“生っ白くて女みたいなやつが入ってきた”と思い、その思いをそのまま口にしたところ、いきなり真成兄さまに殴られた、それで吉麻呂も殴り返した、とのことでした」

 玄昉は苦笑して、よろよろと起き上がっていた真備の方を見やった。

 真備は苦悶の表情で鼻柱を押さえながらうなずいた。

「いまの仲麻呂の説明通りです。わたしはその場にいました」

 玄昉の腕の中にいた吉麻呂がふん! と鼻を鳴らし、せせら笑いながら、

「そうそう、それでそのあと大学のお偉いさんから大目玉くらって、二人で仲良くむち打ちの罰食らったんだよな。まったく懐かしい思い出だぜ。なあ、井上の!」

「うるさい!」

 真成が吉麻呂の足を蹴った。 

 玄昉はすかさずその真成の足を捕まえてすねにげんこつを加えた。

 笑いながら玄昉は吉麻呂の頭を小突き、

「元気があるのはいいことだが、船の上ではおとなしくしような? せっかく三ヶ月かけてあの千里の海を越えて来たのに、こんなところで溺れ死ぬのはごめんだ」

 そんな運河の旅と、その後の陸路の旅も三ヶ月。

 わたしたち一行が大唐帝国の都長安にたどり着いたのは、秋も終わらんとする頃、霊亀れいき三年、唐の暦で開元かいげん五年(七一七年)、九月中頃のことだった。


 


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