十一 蘇州(三)

 しばらくして遣唐使船に琴が運び上げられた。

 玄昉げんぼうはそれをやぐらの上の太鼓の前に置かせた。

 真成まなりが大きな目をぱちぱちさせて、

御坊ごぼうが琴をたしなむとは知らなかった」

「何を言っている。真成、おまえが弾くのだ」

「おれが!? なぜ?」

「まあ、いいから弾け。おまえは琴が得意だと、聞いたことがあったからな。さあ、唐の連中へ挨拶代わりだ。心を込めて弾けよ」

 真成はしぶしぶやぐらに上がり琴の前に座った。だがなかなか弾き出さなかった。

 真成がいま琴に誰の面影を見出だしているか。

 わたしには分かっていたので胸が少し痛んだ。

 真成は弦をはじいた。ぽろん。

 その瞬間、船の上は静まりかえった。

 みな喋るのをやめてやぐらの上の真成を見上げた。

 真成は琴を弾きはじめた。

 彼がかき鳴らす琴の音は蘇州の空に吸い込まれて行き、港には微かに届いたようだった。それでもだんだんと岸壁にひとが集まってきた。

 真成も弾いているうちに気持ちが乗ってきたようで、ゆったりと流れるような曲を弾いたあと、次ははずむような軽快な曲を、その次には低音を多く使った幽玄な曲をと奏で続けた。

 夕方、物売りの舟から明朝下船の許可が下りるはずとの知らせが入った。

 宇合うまかいは玄昉に、

「どういうことか」

「琴を貸してくれたのはおそらくこの港町の有力者です。その人物が入国手続きを早めるよう口をきいてくれたのだと思います」

「何のためにだ?」

「商売のためです。物売り舟をご覧になったでしょう。ここの商人たちはしたたかだ。遣唐使がひとたび上陸すれば、宿舎の提供、物資の提供、遣唐使船の修理の手伝いなどさまざな仕事が生まれます。それに関わりたい、あるいは独占したい。琴の貸し主は先手を取るために役人にかけあってくれたのです。我々が借りたのは琴だけではありません。副使さま、お忘れなく」

「うむ、その有力者とやらに貸しをつくったのだな。分かった。上陸したらさっそくその御仁ごじんに挨拶しに行かねばなるまい」

「副使さま、琴を弾かせたのはそれだけではありません。我々日本国遣唐使はどんなときでも泰然たいぜんとしている、と示すためでもありました。一刻も早く陸に足をつけたいところですが、その焦りを見せてはいけません。焦れば、言葉は悪いですが、見くびられます」

「なるほど、それこそ大事なことであった」

 その日さらにもうひとつ嬉しい出来事があった。

 他の三船がそろって蘇州に現れたのだ。

 第一船の上からは阿倍仲麻呂あべのなかまろ羽栗吉麻呂はぐりのよしまろが手を振っていた。二人とも元気そうだった。

 翌朝船を下り、ついに唐土に足をつけた。

「ここが唐!」

 足裏から喜びが駆け上がってきた。

 喜びはわたしの全身を巡り、最後にわたしのからだから飛び出して天高く舞上がっていった。

 頭上に抜けるような青空が広がっていた。春三月に難波津なにわづを出てから三ヶ月、夏も終わりに近かった。

謝謝シェシェ……」

 ふいに耳元で低い呟きが聞こえた。

 すぐに振り向いたが、誰もいなかった。

 


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