第41話


 世界は白黒で何処にも色は無かった。父は戦争で亡くなり、自分は残された母親と歳が離れた兄や姉に養われた。

 家は貧しく、だから腹がすくときはいつも指の皮を血が出るまで噛んで、血を舐めては空腹を癒した。

 初めて盗みをしたのは少年の頃、夏の暑い日だった。蒸すような暑さの中で喉が渇いた。しかし小さなポケットに手を入れても何もなかった。ふらつく様な足取りで人通りの通りを歩いていると、軒下に果物が見えた。

 良く熟れた西瓜だった。

 ちらりと店の中を見たが、誰も居なかった。それだけで十分だった。

 気が付いた時には西瓜を手に持って勢いよく走っていた。

 誰も追ってこなかった。ただ背中に伝わる汗だけが自分の行いを責める様に纏わりついた。

 それからは幾度となく、他人の物を盗んだ。しかし誰も自分を追っては来なかった。

(盗みは存外、簡単なものだな)

 そう少年時代に思った。

 しかしその追手が初めて自分の手を掴んだのは十六歳だったと覚えている。

 初めは一人で始めた窃盗だったが、そのうち徒党を組む様になった。組めば大きなものを盗れ、そして金にできた。金が手に入れば煙草を吸った。時には女も買った。

 やがて徒党を組み、神戸や大阪の繁華街で盗みを働いた。盗めるものは何でも盗んだ。

 その内、警察でも手配書が配られるぐらい名が売れた噂を聞いた。

 その噂が自分の心に火を点けて、余計に神戸、大阪で暴れまくった。

 しかし、ついにしくじった。逃走に失敗し、警官に路上で倒された。

 寡黙な母親は何も言わず、自分を引き取りに来た。だが自分を責めることは無かった。

 貧しさが犯罪に走らせたこと、そしてそれが母親である自身にあることをわかっていて、息子を責めることが出来なかったのだろう、一晩中母親は布団の中で泣くだけで、何も言わなかった。

 朝目覚めると母親は居なかった。近くの漁業組合の仕事に出かけたのだろう、小さなテーブルの上に自分用の朝食が置いてあった。

 半身身体を起こすと時計を見た。午前十時を少し過ぎていた。窓を開けると雨が小粒交じりに降っていた。

 食事を終えると何もすることが無く、身体を布団の上に投げ出し、天上を見上げた。無数の染みが見えた。

(天井の染みでも数えるか)

 その時、遠くで声が聞こえた。男二人が話している声のようだった。誰も居ない家に二人の男の会話が小さくとも良く聞こえた。どうやら隣の家にある離れから聞こえてくる。

 聞こえることに、特に関心は無かったがただ天井の染みを数えるよりかはましかと思い、横になって耳を澄ました。

 男二人の会話は、熱を帯びているようだった。時折、若い方の男の声が弾ける。

(なんや、つまらん、おっさんの話か)

 そう思った時、一瞬空白があり、若い男が小さく叫んだ。

 その叫んだ内容に、身体がピクリと動いた。そして反射的に身体を声の聞こえる様に動かして、家の壁に耳を当てた。

(なんやて・・)

 集中して耳を傾けた。

 壁向こうから、はっきりと聞こえた言葉に驚いた。

(《芦屋の向日葵》やと・・)

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