第34話

―護さんー

 美しい文字が見えた。

―何も言わず出て行く私を許してください。そして許されるのならば私と兄を許してください。ー

(どういうことだ・・?)

 護の目が動く。

―私は実は新島さんと結婚することになりました。祝言は来月に挙げることになっています。どうしてこのようなことになったのか・・お話をすれば長くなりますが、私の立場として何を申し上げても護さんから見れば、裏切り者の弁ととらえられることでしょう。ですから私が何か言うことは余計に護さんの名誉を傷つけること以外にはありませんので、伏しておくことが良いことだと思います。新島、いえ・・夫は護さんにも私達の式に出ていただくことはこれからの我々の友情のためにも必要なことだと言っています。私も・・このような身で護さんに言うのも憚れますが、もしお心にわだかまりが無いのであれば是非、式に出て祝福をしていただきたいと願うばかりです。しかしながらその願いを護さんが叶えることはそれがどれほどの苦しみかと思うと、ゴルゴダの丘で磔刑にされた聖人イエスの心以上に私は理解でき、それが私の虫の良い無慈悲で、また女の愚かさだと思っています。それにも増して私は護さんの私への気持ちを知ってこうしたことをしているのです。私は・・護さん、あなたの気持ちを知って裏切った・・そうそれはまるでイエスを裏切ったユダ以外にありません。ー

 護は頭が白くなってゆく中で、手紙の中で頼子に告げられたことを混濁してゆく意識の渦に巻き込まれながら、自分の理性が無くならないように何かにしがみつこうとした。

 ふらりふらりと立ち上がりアトリエの中を歩いてゆく。

 手紙は続いていた。

 護は再び目を手紙に落とした。

―それで私は大阪へ向かう汽車の中で考えました。私も同じ苦しみを背負うべきだと。もし神が人々に平等ならば、裏切りも平等に甘受されるべきだと。私は・・・もし護さんと結ばれて子供を授かれば育てたいと思いました。夫への裏切りになるでしょうが、それがせめてもの護さんへの罪滅ぼしになるのではないかと。勿論そのことを夫は知らないでしょう。そしてこれは身勝手な女の思いなのです―

 護はふらつく足で再び絵の前に腰かけた。

―護さん、裏切り者の私が再びあなたの前に現れることはありません。しかしながら私はあなたの側にいつまでも居たいと望んでいます。こんな私でもあなたがもしいつまでも側に居てほしいと思うことがあることを信じれば(わがままだとは十分承知しているのです)、私をいつまでも側に置いていただきたくて絵を描いてもらったのです。―

 護は描かれた頼子の顔を見た。強くこちらを見ている黒い大きな瞳が見えた。

―私は・・護さん、あなたの幸せをいつまでもお祈りしています。そして夫の新島も彼ならこれくらいの試練は乗り越えられると言っています。そして僕達の友情はより一層、強固なものになるだろうと。護さん、我儘で申し訳ありません。また戦後の混乱の中で御尽力を頂いた乾家の方々に挨拶もせず去った私をお許しください。最後に、夏が来て野辺に咲く向日葵を見る度、私があなたを誠実に愛したことを思い出してください。

それでは、護さん。さようなら、あなたの限りない親切に感謝し、心からあなたの将来が輝くことを遠く東京からお祈りしています。

 新島頼子―

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