憧れ

 ギデオンは知事公館を後にすると、ルカの家に戻ろうとはせず、別な道を歩き始めた。

 道沿いには出店が並び、商人の声が明るく響いていた。

 警察署長の死が民の心を明るくしているのだろうか。

 こうしてみると、少なくてもユダは民にとって権威者であるにしても、あの警察署長のような圧制者でないことは確かなようであった。

 ユダという男は相当頭が切れるのだろう。

 狡知に長けた権力者は民に権力の臭いを感じさせないものだ。自由であると思わせつつ民を支配するものこそが、真の権力者といえる。そういう意味では危険な男であった。

 おそらくユダは王や教皇の側近たちともつながっているのだろう。ギデオンが訴えたところで、証拠もないこの状況ではユダを追いつめることは難しいと思われた。

 ギデオンはこの件でユダを追いつめるのは既に諦めていたが、気になることがいくつかあった。

 その一つはユダの部屋に飾られていた絵であった。

 荒れ狂う海から姿を現し、人間たちを死に導くリバイアサンを描いた絵。

 それは神の怒りを畏れよと、人々に警鐘を鳴らす絵とも見えたが、そこに描かれたリバイアサンはあまりに神々しく、神のごとき圧倒的な姿で人に迫り、美しささえ感じられた。

 そして、ユダが聖堂会のマスターであるらしいということも、ギデオンの心に影を落としていた。

 預言者エノクからの手紙に書かれていたことが真実であるとすれば、あのユダという男は、いずれギデオンの前に大きな脅威として立ち上がってくるだろうと思われた。

 そのためにも確かめねばならなかった。

 リュウという少年の過去を。



 リュウは一人で荒野を歩いていた。

 自分以外誰もいない荒野。

 いつも夢に見る孤独な世界。

 また、誰かの泣き声が聞こえていた。

 はるか遠くから聞こえてくるようでもあり、すぐ近くで泣いているようでもあった。

 ひどく、体が重かった。

 足は鉛のように重く、一歩動かすことさえ苦しかった。

 だが、リュウは歩き続けていた。

 どこに行こうとしているのかも分からないが、とにかく、歩き続けていた。

 前に進みたいのか。いや、もしかすると、何かから逃げているのかもしれなかった。

 だがいったい、何から逃げているのだろう。

 もしかして、その泣き声の主から逃げているのだろうか。

 分からない。

 分からない。

 リュウの魂は、いまだ冥府の中にあった。

 リュウの魂は、いまだ行き先を決めかねていた。



 ギデオンが辿り着いたのは、リュウが育った孤児院だった。

 ルカのいうとおり、孤児院とは名ばかりで貧民窟のような汚らしい建物だった。

 建物の前ではみすぼらしい服を着た子供が三人しゃがんで、石で遊んでいた。

 ギデオンはその輪にはまるように腰を屈めた。

 子供たちはいきなり輪に入ってきたギデオンを興味深げに眺めていたが、意外にもその顔には卑屈さはなく、目は澄んで光があった。

「きみたちの名前は」

 ギデオンは優しい声で尋ねた。

「……マルコ」

 三人の中で一番大きい少年が答えると、すかさず残りの二人が、

「セム」

「ヤペテ」と元気に答えた。

 ギデオンは三人を微笑ましく眺めながら、一番大きなマルコという少年に尋ねた。

「マルコよ、君は、ここにいたリュウという少年のことを知っているかね」

 その途端、三人の眼が輝いた。

「リュウのことならよく知ってるよ」

「僕も知ってるよ」

「僕だって知ってるよ」

「ははは、マルコにセムにヤペテよ。みんないい子だ。みんなリュウのことを知っているんだね。それじゃ、みんなに聞こう、リュウはどんな少年だったろうか」

「リュウは凄く強かったよ」

「トーナメントで優勝したんだよ」

「王の騎士になるんだよ」

 三人は誇らしげに答えた。

「もっと、小さい頃のことはしらないかね。リュウは、ずっとここにいたのかね」ギデオンが重ねて尋ねた。

「……違うよ」

 今度はマルコだけが答えた。

「違う? では、リュウはいつここに来たのかね」

 マルコは、指をおって数えていたが、ようやく思い出したと見えて、大きな声で叫んだ。

「そうだ、三年前だよ。思い出した、僕が十歳になった年だったよ」

「……三年前」

 ギデオンは一言つぶやくと、しばらくじっと黙って考えていたが、ふと気づくと三人の子供たちが自分の顔をじっと眺めていた。

「子ども達よ、リュウのことは好きかね」ギデオンは微笑みを浮かべて聞いた。

「大好きだよ。リュウは僕らの英雄なんだ」

「僕も絶対にリュウのように強くなって、トーナメントで優勝するんだ」

「僕はリュウと一緒に、悪い奴をやっつけてやるんだ」

 そう答える子どもたちの顔は生き生きとして、目は光り輝いていた。

 ギデオンはその様子に満足したように立ち上がると、こう言った。

「マルコもセムもヤペテもよく聞きなさい。リュウはそなたたちに誇りと勇気を与えたようだ。それを決して忘れてはいけないよ。そうすれば、きっとそなたたちもリュウのように、強く立派な戦士になるだろう」

 ギデオンの言葉を聞くと、三人も勢いよく立ち上がった。

「リュウを忘れるもんか」

「リュウはおじさんよりも強いんだぞ!」

「ところで、おじさんの名前はなんていうの」

 ギデオンは思わず、笑い声をあげた。そして、三人の子供たちに自分の名を告げた。

「私は預言者エノクに選ばれし、士師ギデオン。神の御業をこの世に伝えんとするものだ」

 ギデオンがそう言うと、子ども達はびっくりしたように口をぽかんとあけた。

「子ども達よ、よいか、決して忘れるなよ。道は自らが切り開くものだということを。そして、道を自ら切り開こうとする勇気あるものにこそ、神はその御手を差し伸べられるのだということを」

 ギデオンはそう言うと、口をあんぐりあけて突っ立っている三人の頭をなでて、建物の入り口に向かっていった。

 ギデオンが建物の中に入る瞬間、後ろで子供たちが狂ったように大騒ぎする声が聞こえた。

 ギデオンはその歓喜に満ちた声を聞いて、思わず口がほころんだ。 

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