神意

「こりゃいったい、なんの余興ですか。こんなことして、何が起こるっていうんですか」

 署長は冗談でもいうように軽口をたたいたが、その顔はひきつっていた。

 署長の周りを人が取り囲んでいた。

 誰も彼も氷のように冷たい目で署長を見つめていた。

 その人の輪はまるで鎖のように署長を取り囲み、蟻一匹這い出る隙間もなかった。


 いったい何が起こるっていうんだ。あの野郎、変なことをいいやがって、何にも起こるわけないじゃないか。

 署長はぶつぶつとつぶやいていたが、その額には脂汗がにじんでいた。

 その時だった。

 何か巨大なものが背中にぶつかった。

 署長は極度に太っていたためバランスが取れず、無様に前に倒れ込んだ。

 用心のためにずっと握っていた剣も遠くに転がっていった。


 何事かと思って後ろを振り向くと、そこには大きな豚がいて、じっとこちらを見つめていた。

 さきほど鞭で叩き、剣で殺し、追い回した豚の一団だった。

 豚は真っ黒い目で署長を見ていた。その目は妙に生々しく、ぬらりと濡れていた。

 突然、先頭の豚が大きく鼻を鳴らした。

 するとたちまち、群れ全体が物が憑いたように極度に興奮し始めた。

 大きく口を開けてわめく豚たち、その口からは赤い舌と白く尖った牙が覗いていた。


「あっちへいけ、この野郎。叩き殺すぞ、あっちへいけ!」

 署長は仰向けのまま、体を後ろにずり動かしながら豚に怒鳴り散らしたが、豚たちの興奮はまず、逆にじりじりとにじり寄ってきた。

「この豚ども、あっちへいけ! おいお前ら、この豚どもを捕まえろ!」

 異常な空気に恐れをなした署長は思わず部下に命令したが、誰一人として動こうとするものはいなかった。

 いつの間にか署長は豚に取り囲まれていた。

 自分の顔の上に豚の顔がいくつも並んでいた。

 どれもこれも真っ黒な目で署長を見つめ、涎を垂れ流していた。

「や、やめろ、やめてくれ、た、助けてくれ! 誰か、助けてくれ!」

 それが最後の言葉だった。

 豚は署長の鼻に噛り付いた。頬を噛り取った。目を貪り啜った。耳を引き裂いた。服を噛みきり、腹の肉を喰いちぎった。内臓が見えると、我先にと顔をうずめて腸を貪り食った。ズボンも食い破られた。醜く崩れたペニスの残骸があったが、豚はそれも喰い始めた。

 聞くに堪えぬ悲鳴が轟いたが、それもすぐにやみ、肉を食う音、骨を砕く音、内臓を啜る音、ただ、むさぼり喰う音だけが空虚な空に響いた。


 何分たったのだろう、豚たちがようやくその場を離れた。

 その場に残ったのは、完全に白骨化した骨の残骸だった。

 豚は何事もなかったかのように、もといたところに戻ってきて、大人しくしていた。

 人々はそれをみて、ようやく息をついた。

 すると、所々から歓声があがり始めた。

「終わった! 終わったんだ!」

「みんな、俺たちは、ようやく、あの悪魔から解放されたんだ!」

「平和だ、待ちに待った平和がやって来たんだ!」

「神は私たちを救ってくださったのだ!」

 人々は興奮したように喚き始めた。


 だがその時、再びギデオンの声が人々の頭上に響き渡った。

「諸君、神意はかくの如く峻烈にあの男に下った。悪は神によって地獄の底に追い払われた。神の御心と御業を目の当たりにして、私も諸君と共に神を称えたい、喜びの酒を酌み交わしたい――だが、私は諸君に対しても怒りを禁じえない。諸君はなぜ、あのような暴虐を黙って見逃していたのか。なぜ誰一人、あの男の横暴に立ち向かおうとしなかったのか。あの男が地獄に落ちて、諸君はこれでようやく平和が戻った、自分たちは救われたと思っているのかもしれない。だが神の眼をごまかすことはできない。あの男の審判は今下ったが、諸君らの審判はまだ終わっていないのだ。諸君は裁きの時、神の前に立たねばならぬ。その時には、これまでの己の振る舞いを神の前で弁明しなければならないのだぞ!」

 ギデオンの言葉は喜び勇んでいた市民の心にとげのように突き刺さった。

「もしかしたら、諸君はこう言うかもしれない。私には、あの男に立ち向かえるだけの力がありませんでしたと――ならば聞きたい。諸君は自分より強い相手には、ただ怯えるだけで何もせず、相手の言いなりになるしかないというのか。相手の機嫌を伺って、ひたすら媚を売って奴隷のように生きるというのか――それが、勇気を持った人と言えるのだろうか、それは臆病者のすることではないのか。真の勇者とは、力のあるなしではない。あの少年ように、あの娼婦のように、己の力を超えるものに対しても臆せず、敢然と立ち向かうことではないのか。私は諸君に聞きたい、諸君は自身に勇者の資格があると思うか! 諸君、神を畏れぬ不吉な風がこの世を覆っている。だが、諸君はたった今見たはずだ。神がこの世界をじっとご覧になっていることを。諸君、神は今まさにこの上にいらっしゃって、諸君を見ているのだぞ! これからの人生を神ともに生きるか、それとも汚濁にまみれて生きるか、それは諸君次第だ。だがもし、この光景を目の当たりにしても行いを改めぬというなら、諸君もきっとあの男と同じ運命をたどることになろう!」

 皆、下を向いてうつむいていた。誰一人顔を上げられるものはいなかった。

 だが、子ども達だけは目を輝かせてギデオンの姿を眺めていた。ギデオンの後ろに神を見ていた。

 ギデオンは近くによってきた少年がきらきらと光る眼で自分を見ているのをみると優しく微笑んで、その頭を撫でた。

 その少年はおそらく死ぬまで、この日のことを忘れることはないであろう。神の士師ギデオンに祝福された日のことを。

 こうして、マナハイムを襲った闇は士師ギデオンによって取り除かれた。

 それは一瞬の雲の切れ間であったのかもしれない。

 だが、確かに神はそこに現れ、神の御業を示されたのだった。

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