士師ギデオン

 エノクの死はまたたくまに国中に報じられた。

 もちろん、エノクが最後に残した預言も同じように広まったのだが、世界が滅びるという恐るべき預言にも関わらず、市民の混乱はほとんどなかった。

 もちろん中には街角で騒ぎ立てるものもいたが、大抵の人々はあまりに信じがたい話に、そんなことがありえるはずがないと高を括るのみで、大仰に騒ぐものを嘲りの目で見つめるだけだった。

 繁華街ではエノクとエノクの預言を風刺した戯れ唄がはやり、世の中が破滅するなら一層この世の享楽を楽しめとばかりに、毎夜毎夜淫らな嬌声と笑い声が空を賑わした。

 と言って、人びとを責めるのは酷なのかもしれない。

 この豊かで平和な世界がある日突然終わりを迎えるなどと、そんな話を信じろと言う方がどだい無理なのかもしれない。

 しかも世界を破壊するのが、リバイアサンとかいう怪物のような人間だというのでは、人びとが真に受けないのもやむをえないことなのかもしれない。


 しかし、国を預かるものたちはそうとばかりは言ってはいられなかった。

 司法大臣は全国の警察署にふれを出し、リバイアサンと関係がありそうな情報を至急集めさせるとともに、治安の強化を徹底した。

 結果、国中の前科者や浮浪者、反体制者が吊るし上げられた。

 その中には冤罪のものも多くいたが、警察が十分な取り調べなどするはずもなく、汚いものは汚いという先入観と卑劣な告げ口により、死んだ方がましというような拷問が繰り返された。

 だが、多くの市民は国の方針に万雷の喝采かっさいをあげた。

 自分たちに害が及ばなければそれでよかったのだ。

 連行されるものたちは前科者にせよ、浮浪者にせよ、自分たちとは縁遠い世界にいる余計な人間たちだった。そんなものたちがどうなろうが、却って街が綺麗になるとしか思っていなかった。

 多くの罪なき者たちの血が流された。

 正義を求める数少ない人々の叫びは天に充ちていた。



「ギデオン! 紅茶が冷めちゃうよ!」

 台所の方からマリアの声が聞こえたが、ギデオンは返事をするのを忘れるほど目の前の手紙に目を奪われていた。

 ギデオンが読んでいるのは預言者エノクからの手紙であった。

 エノクが世を去ったことはもちろん知っていた。

 そして、その恐るべき預言のことも。

 ギベオンはここしばらくの間、ずっと心を痛めていたが、ようやく待ちに待った手紙が届いたのであった。


 ギデオンは士師ししであった。

 士師とは神が必要に応じて、この世に遣わす戦士であった。神は預言者の口を通して士師を選び、その任を与えるのであった。

 士師はあらゆることを免れていた。国王ですら士師を従わせることはできなかった。

 なぜなら、士師は預言者の言葉によって神の業をなすためだけに存在するものであるからであった。

 そして、ギデオンを選んだ預言者こそがエノクであった。

 ギデオンはエノクの手紙を繰り返し繰り返し読んでいた。

 それは信じられぬ内容であった。

 だが、ギデオンはエノクの言葉を疑いはしなかった。

 ギデオンにとって、エノクは父のような存在であった。

 ギデオンは意を決した。

 士師として命を賭してもエノクの命を果たさねばならぬと。それはまさしく、神の命そのものだから。


 ギデオンは手紙を読み終えると台所に向かった。

「もう、すっかり紅茶が冷えちゃったよ」

 まだあどけない顔をした少女が、ギデオンを見て軽く睨んだ。

「すまん、すまん、とても大事な手紙だったので夢中になってしまった」

 ギデオンはそう言うと椅子に腰を掛けた。

 マリアはギデオンの顔を睨んでいたが、急に頬を緩めると、

「もう一度、入れなおすね。ちょっと待っててね」とにこっと笑った。

 ギデオンはマリアの笑顔を見て微笑んだ。

 こんな他愛もないひと時がなんと愛しいものかと感じた。

「はい、どうぞ」

 マリアが新しい紅茶をギデオンの前に置いた。紅茶の脇には、小さなビスケットが二つ添えられていた。

 ギデオンは紅茶を口に含んだ。甘みを含んだ紅茶がなんとも言えず美味しかった。

 この味ともしばらくの間お預けだな。

 ギデオンは寂しく笑った。

 ギデオンの様子がいつもと違うことを敏感に察したマリアが、少し不安げな様子で尋ねた。

「どうかしたの、何かあったの」

 ギデオンはカップを置くと、マリアの顔を見つめた。

「実は旅に出ることになった。しばらくは帰ってこれないかもしれない」

 マリアはじっとギデオンの顔を見つめた。そして、固い面持ちで言った。

「私も一緒に行く」

 ギデオンはマリアを見た。

 根は優しい子だが、心中には激しいものを持っていた。一度決めたら梃子でも動かない子だった。

 旅をするのに、まだ大人ともいえない女の子を連れて行くのは非常に危険であった。だが今の世を見れば、マリアをこの家に一人残していくのはなんとも物騒だった。どうせ危険があるとすれば、自分の側にマリアを置いていた方が安心なことは安心だった。

 それにギデオンはマリアとの約束を思い出した。

 もう二度とマリアを一人ぼっちにすることはしないと。


 ギデオンは腹をくくった。

「しばらくは紅茶ともお別れになるぞ」

 その言葉を聞いたマリアの顔が、花が咲いたようにぱっと明るくなった。

「ギデオン、知らないの。紅茶はパックに入れれば外でも飲めるんだよ」

 マリアはそう言ってにっこり笑った。

「そうなのか、知らなかったよ」

 ギデオンがそう言うと、二人は顔を見合わせて笑った。

「――ところで、どこに行くの」

 マリアが、何気なく聞いた。

「さて、最後どこに向かうのかは、俺にもよく分からないが、とりあえず最初に向かうべきところは決まっている――マナハイムだ。そこに行って、リュウという名の少年を探し出さねばならない」

 そう語るギデオンの顔は少しだけ憂いを含んでいるように見えた。

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