第2章

預言者エノク

 首都シオンの外れにある森の中の質素な一軒家に、多くの人が詰めかけていた。

 国王の側近や大臣たち、教会からは枢機卿や大司教、騎士団の総長、他にも商人組合の長や石職人の代表ら、各界の主だった顔が大勢集まっていた。

 重責を担い、国を支えるものたちが、かくも多くこんな辺鄙な場所に集まっているのには理由があった。

 今日、預言者エノクが最後の預言を与えると連絡があったからであった。

 預言者エノクは神の言葉を聞くことのできる唯一の人間であった。

 神は常にエノクを通じて御言葉を伝え、その御心を世界に伝えてきた。

 ところがこの十年というものエノクは黙したまま語らず、じっと家に引きこもり、国王や教会からの招請があっても、ついぞ家を出ることはなかった。

 そのエノクが齢百を超えて己の死期を悟ったのか、最後に神の言葉を告げたいと言い出したのだった。


 エノクの寝室は人で埋まっていた。

 長年付き添った従者が恐る恐る、眠っているかのように目を閉じていたエノクに皆が集まった旨を伝えた。

 エノクはうっすらと目を開いた。

 目ヤニが溜まったその顔には、長年の辛苦を思わせる深い皺が何本も刻まれていた。

 白い髭が胸元まで伸びていたが、それももはや干からびた蜘蛛の巣の如くに精気が失われていた。 

 エノクは集まったものたちを見ると、憂いの面持ちで静かに語り始めた。

「これは、私がそなたたちに与える最後の言葉になるであろう。私はこれまで幾度となく、民衆の間に広まっている乱れを正せと声をからしてきた。しかし、民衆の中に生じた悪は消え去るどころか人々に蔓延まんえんし、今や神の御名は地に堕ち、国中に悪がはびこっている。それを見た神は私の無力さに呆れかえり、この十年もの間、私の問いかけにも応えてくださらず、私は皆に語る言葉を失ってしまった」

 エノクは一つ息をついた。

「ところが三日前の晩、私が眠っていると、神が私の名前を呼ぶのが聞こえた。私は目を開いた。そこは光に包まれた神殿のような場所だったが、神は高い御座にお座りになされ、私に御言葉を授けてくださった。そして、その御言葉をお前たちに伝えよとおっしゃられたのだ」

 エノクは、皆にもっと近くに寄るように手を挙げた。

 男たちは神の言葉を聞き逃すまいと、エノクが眠るベッドににじり寄った。


「神は僕たるこのエノクにこう言われた。

『わたしは塵から人をつくり、命を与えた。私は人を自分の思うままに作ることもできたが、あえて、そうはしなかった。あくまでも自由な意思をもつものとして作った。自由な意思を持つ人が自らの意思で、わたしを称えることを望んだからだ。わたしに服従することを宿命づけられて作られたとしたら、そんなものたちの祈りがわたしにとってなんの価値があろう。だから、人はすべての行為を自分の意思で行うことができるのである。

ところが、人はその自由な意思で正しい道を進もうとせず、悪をなすことにのみ夢中になっている。私は人が自らの行いを悔い、私のもとに帰ってくることをひたすら願った。だが結局、それは報われることはなかった。そして私の怒りはいまや水瓶を超えるまでに達してしまった。

かつて私は、悪徳に満ちた世界を幾度となく滅ぼしてきた。今再び、その時がやってきたのだ。

私はお前たちの世界にリバイアサンを放っておいた。リバイアサンはお前たちの中にはびこる悪徳を餌として食らい、日々成長している。あと三年の後、リバイアサンはお前たちの世界を悉く破壊し尽くすであろう。エノクよ、このことを人々に告げ、わたしの意志を知らしめよ』と」

 エノクの言葉が終わるや否や、国王の側近がエノクのベッドに手をかけて叫んだ。

「預言者エノクよ! それは真の神の御言葉ですか。それはあんまりな御言葉だ。いったい、私たちのどこに悪徳などというものがあるでしょうか。民は慈しみあってお互いを助け合い、上に立つものはその高貴な責任を果たすべき日夜努力しているというのに、神は我々の姿をご覧なっていないのでしょうか?」

 その言葉を遮るように、教会の枢機卿が声をあげた。

「預言者エノクよ、私はあなたに十分な敬意を表すものですが、今の言葉は腑に落ちぬ。教会は神と共にあり、我々は日々神に祈りを欠かさない。神は我々の真摯な祈りをいつも暖かくお聞きくださっている。まさかとは思うが、あなたは自分の考えを神の言葉を借りて広めようとしているだけではありませんか」

 さらに、騎士団長が大声を上げた。

「預言者エノクよ、あなたの仰る言葉はあまりに惨い。神は私たちを愛してらっしゃらないのですか。私たちがどれほど神を愛しているかお分かりにならないのでしょうか? 私たちが神のために捧げているこの心をお疑いなのでしょうか。もしお疑いというのであれば、今この場でこの胸を切り裂き、私の清廉潔白な心中をお見せしたい」

 エノクは、再び手をあげて議論を制した。

「神はこうもおっしゃった。『わたしは、いまこの瞬間をも人を愛している。人がわたしに嘘をつき、わたしを罵り、わたしを敬わぬとしてもだ。だから、わたしは人に機会を与えようと思う。もし、リバイアサンがまだ力を蓄えぬうちに捕らえて、殺すことができれば人は救われる。人よよく考えよ。リバイアサンとは人である』」

 エノクは弱々しくそう言うと、疲れたように目を閉じた。


 その言葉を聞いた人々は狂気じみた声を上げてがやがやと周囲の者たちと話していたが、こうしてはおれぬと蜘蛛の子を散らすように駆け去っていった。

 さきほどまでの喧騒が嘘のように静まり返ったエノクの寝室に、皆を送り出した従者が戻ってきた。

 従者がエノクのもとに行くと、エノクは微笑みを浮かべて息絶えていた。

 その微笑みはようやく神の御許にいけた喜びなのであろうか、もしかすると世界の終焉を見ることなくこの世を去ることができた喜びであったのかもしれない。

 こうして、神の言葉を聞くことのできる唯一の預言者はこの世を去った。

 それは、あの惨劇があった夜から数えて、ちょうど六年目の日のことだった。

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