第1章

リュウという名の少年

 白い雲が流れていた。

 リュウは屋上に突き出した階段室の上で寝そべりながら、流れる雲をぼんやりとながめていた。

 くだらない授業など受けるつもりはなかった。

 かと言って、子どもたちが泣きわめく孤児院に戻るつもりもなかった。

 とにかく、早くこの狭苦しい街から出たい。あの白い雲のように、誰にも束縛されることなく自由に世界を歩きたい。

 雲を見ながら、そんなことばかり思っていた。



 太陽が東の空から中天に登り、そして今度は西の空に傾きかけたころ、突然下から話声が聞こえてきた。

 どうやら、誰かが屋上に上がってきたようだった。

 リュウは聞く気もなしに、そのまま空を見上げていた。


「そうか、それじゃお前も大変だな。親父は酒であたって半身不随、母親は他に男を作って出ていったんじゃな――」

「――ああ」

「確か、お前のとこにはまだ小さな子どもいたんじゃなかったか」

「――七歳の弟が一人いる」

「そうか、それで学校終わってから鍛冶屋で働き始めたわけだ」

「――うん、このままじゃとても食べていけないからね」

「えらい! 感心したよ。それじゃ、この金で弟に美味いものでも食わせてやれよ」

「えっ、いいのかい? しかもこんなに」

「いいっていいって、気にするな」

「あ、ありがとう!」

「いや、ちょっと待てよ。やっぱりただで金もらったんじゃお前も寝覚めが悪いだろうから、その代わりに何かやってもらおうかな。そうだ、俺の靴を磨いてくれよ。それでどうだ」

「ああ、そんなことお安い御用だよ! じゃあ、靴脱いでくれよ。今からピカピカに磨くからさ」

「おいおい、そうじゃないだろ。靴を脱いだら、俺はその間、足をどこにおいたらいんだよ。この汚いレンガの上に足を置いとけっていうのか?」

「――そ、そうだね。それじゃ」

「ほら、このまま磨けよ」

「――分かったよ、ごめんね。じゃ、今から磨くね」

「お前さ、そんな汚いハンカチで俺の靴を磨こうってのか? この靴はお前ごときが一生働いても手に入れることができないくらい高価なものなんだぞ。お前の舌で綺麗にするんだよ、決まってんだろ――なんだよ、その顔は。なにか不満でもあるのか」

「そ、そんなことないよ――そうだね。君の言うとおりだよ」

「そうそう、そうやって四つん這いになって――ほら、もっと舌を出せ――しっかり舐めとれよ。泥も全部舐めとってピカピカにするんだぞ」

 その時だった。リュウが屋根から飛び降りてきて、目の前の二人を暗い目で見た。

 そこにはボロボロになった学生服を着込んで地面に這いつくばった貧相な少年と、ぴかぴかのスーツを着て金髪をオールバックに決めた生意気そうな少年が足を突き出して立っていた。

「……なんだよリュウじゃねえか、びっくりさせるなよ」金髪の少年が言った。

 リュウはその声が耳に入っていないかのように、じっと二人を眺めていた。

「……なんだよ、なんか文句でもあるのか? お前には関係ねえだろ」金髪の少年はもういいとばかりに靴を引っ込めると、リュウの方を向いた。

「――お前らの声を聞くだけで不愉快なんだよ」リュウが低い声で言った。

「おいリュウ、俺に楯突こうってのか? お前、王の騎士に選ばれたからって、少しばかり調子に乗ってんじゃねえのか。俺の父上はこの街の知事で、この学校のスポンサーだぞ。分かってるのか。お前なんか、いつでもこの学校辞めさせることができるんだぞ」そう言うと金髪の少年は、まるで自分にその決定権があるかのように意地悪い笑いを浮かべたが、その笑いは一瞬のうちに引っ込んだ。

 自分の言うことなど屁とも思っていないとでもいうように、リュウが表情一つ変えず剣を抜いたからだった。

 リュウは剣の切っ先を金髪の少年の顔に向けた。

「……お、おい、お前、俺にこんなことして、ただで済むと思っているのか」

 しかし、その言葉もリュウには何の効果も与えなかった。

「……ま、まて、分かった。ただの冗談だ、冗談……おい、何、本気になってんだよ、冗談だよ」

 金髪の少年は額から脂汗を流しながら、一歩、二歩と後ずさった。

 リュウはその様子を相変らず暗い目で眺めていたが、剣を下ろすと汚いものでも見るように唾を吐いた。

「おいリュウ、覚えてろよ。この借りはすぐに返すからな」

 金髪の少年はそう捨て台詞を残すと逃げるように階段を駆け下っていった。



「……あ、ありがとう、リュウくん」

 今まで四つん這いになっていた貧相な少年はすかさず立ち上がると、リュウに近づいて媚びるような笑み浮かべた。

 その笑い顔を見た瞬間、リュウは少年を殴り倒していた。

 そして、尻もちをついてびっくりしたような顔つきでこちらを見ている少年にずいと近寄ると、その顔を思いっきり蹴り上げ、何度も何度も踏みつけた。

 その顔はさきほどまでの無表情な顔ではなかった。身の内に巣食う何か物凄い感情がほとばしっていた。

「俺はお前みたいなのが、一番嫌いなんだよ!」

「お前のその卑屈な面見てるだけで反吐へどが出るんだ!」

「お前、自分が恥ずかしくねえのか!」

「なんだ、あの様はよ!」

 一言叫ぶごとに、悪鬼のような顔でうずくまった少年の顔を蹴りつけた。

 少年の顔はもう血まみれだった。

 はあはあと荒い息をしながら、リュウはその姿を見下ろした。

 その時、少年がブツブツと何かつぶやいているのが聞こえた。

「……俺だって、俺だって、あんなことしたくないよ……だけど、こうでもしなきゃ、生けていけないだろ……俺たちは、負け犬なんだ……だったら、言うことを聞くしかないだろ……」

 少年の目にはいつの間にか涙がこぼれていた。

 リュウは少年の顔を見つめた。

「――どうしても、生きてえんなら、その口はあいつの足を噛み切るのに使え――あいつの足を噛み切って、あの御大層な靴を売って生き延びろ。それができねえんなら、生きる価値なんてねえ、家族みんなで仲良く死んだ方がましだ――」

 そう言うとリュウは空を見上げた。

 空には相変らず、白い雲が流れていた。

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